言葉の現実性

 

 

食べる方では野菜に好き嫌いはない。しかし、作る側ではズッキーニが最も切る感触が気持ち良い。季節なのか安かったから浅漬けにした。本日の肉体的移動は髪を切りに行き、帰りにスーパーに寄っただけ。道中の竹林には筍が生えている。旬。

 

移動=運動も結局のところ視点に依る。昨日、海岸線を歩いている時になんとなく意識と肉体が分離する。意識とは移動する視座となる。視座をどちらに置くかによって何が動いているかが反転するし、別に肉体的な移動が必須ということでもなく。

 

 

理容室では、いつもゲーム談話する店員さんではなく店長さんだった。店長さんはゲームではなく、漫画方面のオタク。この前に切ったとき(4カ月ほど前?)におすすめされた漫画を読みましたよとご報告。ただ、この人との会話はあまり書くことがない。なんだろうな、動いている感じがないから。

 

いつも切ってくれる店員さんの弟さんに洗髪してもらったのだが、初めて話しかけられた。「眉周り、どうしたんですか」。転んだと応える。この前の傷。治ったが色が付いたままで痣のようになっている。聞かずには居られなかったのだろうな。痣と言えば村上作品の「ねじまき鳥クロニクル」。このまま残っても問題ないな。従来の僕だったら弟さんに気を遣わせた痣に申し訳なさを捉えるところだが、今の僕は、話すきっかけになる痣、おもろ、と解釈する。

 

こんな流れで、最新のジャンプ漫画の話になった。随分と読んでおらず、たまたま今週立ち読みしたら絵柄が全然違っていた。まぁ読んでいるだろうなと当たりを付けて話す。こういう自発的な発話もあまりしないのに、自然と。

 

名前を出すとその記事と思われだそうから書かないが、神話も採り入れた叙事詩みたいな漫画だ。自由の象徴としての太陽神というモデル。文学的な解釈だと象徴界は垂直的な構造らしい。たしかに何かを象徴して表わすとき、双方通行にはならない。平和の象徴は鳩とされるが、はとぽっぽの象徴は平和ではない。現実のはとぽっぽは何か浅ましい。

 

考察サイトを一頻り巡り、最終的なお宝は自由=差別のない世界だというのもなかなか面白い。一種の神話のような漫画として残っていきそう。まぁ個人的には垂直的な物語はあまり感じることがないような感じ。受け入れるかどうかの選択の余地しかないし。

 

 さておき。

 

また昨日に戻る。知らない街の地下鉄はどこでも魔境。熱田神宮の行き道は神宮前駅だったが、同じルートが好きでなく、帰りは地下鉄の駅に流れた。人がやたらと多いしその地下鉄では名古屋駅まで行けない。帰れるだろうかと他人事的に捉えて流れていくと、乗り換えがあってなんとなくで名古屋駅につけた。栄の街を歩く世界線を想っていたが、さっさと帰れということだろうなと解釈した。

 

この人のやたらと多い空間に対して、従来であればそれだけで疲れていたはずなのになんともない。敏感気質が消失した訳でもないと思うが随分とタフになっている。これは本日の理容院のやり取りにも通じていて、おそらく「他者」の世界と自分の世界が区分けされている。別に蔑ろにするということではなく、他者の世界における事情みたいなところを僕の物語に含めない。位相が違う座標を無理やり合わそうとしないというか。

 

昨日のアイス屋さんで、家族連れが帰るとき、お子さんが「ゴミ箱どこ?」と言っていて、誰も聞いてくれていなかった。僕はその場所が見えているが、無理に親切心を出して教えたしても、単なる不審者になってしまうのが、現実界。あくまで共通感覚っぽい枠で規定されている、フィクションみたいな時空という解釈。

 

ここには当然、正誤があるのだが、その場限りの正誤にいちいち囚われても仕方ない。

 

世界は一枚岩でなく、位相が折り重なっている。

 

やれやれ。

 

という感じで、自由について思索。「言葉と自由」というタイトルを思い付いたが、なんだか哲学書のタイトルにありそうで仰々しい。

 

言語学なのか哲学なのか記号学なのか分からないが、「クリステヴァ」はいまの僕にとってお誂え向き。自分の動きが理論的に書かれているみたいで面白過ぎる。感覚でしか書いていないからこれによって僕の文体が変化するということはないが、何かが動くのは確か。

 

てきとーにスルーしてきた、哲学的専門用語もいちいち調べないと読み溶けなかった。いただいたボールペンでメモを取る。記録ではなく手習いみたいな感じ。書いたA4用紙は埋まったらすぐ捨てる。

 

弁証法とか。弁証って問答によってそのものに辿りつくというのが語源のようだが、ヘーゲルさん流の止揚とセットみたいなところが好み。何かを言語化するということは、必然的にそれではないということを含んでおり、肯定と否定が共存している。この否定の中にある肯定を保存して、より高次に至るという思想。受け入れるだけで済む宗教とは違って自分の中で運動させないといけない。

 

シニフィアンシニフィエの区分けも、おそらく表音文字の言語圏が原産地だから、日本語に適用するともっとややこしくなるだろうな。シニフィアンは音・文字という物体的な意味合いだが、日本語の漢字は文字そのものに意味があって、シニフィエ(イメージ、概念、意味内容)に侵食していて、そのままやっても上手く適用できない気がする。

 

僕は言葉に無頓着で、シニフィアンシニフィエの間みたいなところで書いている。語彙もそんなにない。ただ、語彙って言葉の広辞苑的な意味を知っているというだけではなく、他の言葉(自分の言葉)に翻訳できるところまで至っていることだと思う。学者は概念的言語ばかり書いているから、記号扱いなのだろうな。

 

自由という言葉って、自らに由(理由)があるという文字的意味があって、因果の空間における自在みたいな感じ。日常用語に翻訳すれば、「なんでもできる」状態のことを差す。ただ、この因果の概念自体が枠だと思う。この意味で自由になったところで人は解放されない。

 

「色彩を持たない多崎つくる」の灰田君が、自由な思考とは枠に対して信仰(尊重?)と嫌悪を両立させることだと言う。まずは枠に規定されている自己意識を把握すべし。その上で動けるという可能が自由。

 

緑川さんの寿命を削る価値がある知覚の解放も、既存の価値規範(共通感覚)に縛られた自己から自由になるという意味合いっぽい。

 

この物語が面白いのは、つくる君と沙羅さんは物語の構造の外に在る存在という感じ。

緑川さんが語る、人には色があるという知覚の外から物語を俯瞰しているが、俯瞰しているだけでは自由になれないという。

 

言葉と自由にどう繋がるかというと、世界観が客観的としている人がほとんどだろうが、その劇場は言葉によってしか語られないという意味で、言葉の歴史性という枠の因果に囚われているということ。例えば、自由もお金があったらとか時間があったらとかの世界の論理を前提としている。

 

好きという言葉も、時空を共有したいという観念ありきだから僕はあまり使えない。僕のこの言葉は、存在が僕の人生劇場に居る楽しさであって、承認の意味合い。物体としての不在は特に気にならない。

 

言葉と意識の動きは連動していて、語彙(としての概念)の習得は、世界の枠を把握することでより動ける(動きは革新・崩壊とセット)ことになると意味で自由の前提になる。

 

言葉はある領域では道具でしかないが、普通に現実を動かすもの。

 

楽しいは決められた楽しさを受動することではなく、自由であること。

 

はい、ここまで。

 

タイトル何にしよう。

 

おやすみなさい。

 

良い言葉を。