信念
その出来事に可能性を収束させることを目論んでいるのではなく、方向と程度が知りたい。
だから、断られても、まぁそうかと思うだけで、評価は不変。
自分に起こった衝動は叶えられる限りなるべく実現することにしている。今日は起き抜けにアイスが食べたくなった。前に食べたのは何か月前だろう。コンビニのアイス売場に行ってみて物色してみたが、味の未来化(イメージ)ができない。お目当てはバニラアイスで、ハーゲンダッツとゴディバと牧場しぼりプレミアムの中からゴディバを選択。美味しいが癖にはなりそうもない。そういえば喉が渇くのだった。
さておき。
電車に乗って本屋に行く改札で、ICOCAに端数があることに気付く。あぁ、東京で乗るとメカニズムは知らないが端数が出るのだったっけ。ICの方が確かに改札機は物理的に摩耗しない。
ゆうちょ銀行が貨幣の預け入れに手数料かかるようにするのもこういう意味なのかも(知らんけど)。まぁ経済政策としては物理的な貨幣が無くなるほどコストカットにはなるわな。行動経済学的には、人は現金より電子マネーを使う時の方が痛みを感じないらしいし、経済も回るようになるかもしれない。
電車区間では漫画を読んでいて、徒歩区間では物理世界と精神世界に流れる時間のずれを可視化していた。
物理的な時間の流れは端的に言えば時計のチクタクで、人に認識される「いま」は時計の針が進んだという、「いまが終わった瞬間」として事後的に捉えられる。いま以外になると精神世界の時間軸が混在すると思われる。客観的な変化としての距離ではなく主観的な評価が入ってくる。
精神世界の時間はもっとぶよぶよしているというか、気分とか切り取り方とか比べ方による。存在と直結しているようでしていない。物理的な時間と同じ意味でいまが把握されるのは、時計を見るという同期があった瞬間だから、それほど変化していないとも言える。
こういった時間の相対性と比べると、空間はかなりきっちり同期しているような気がしないでもない。精神的世界における空間の中でしか物事は認識できず、この空間は物理空間を前提としているというという哲学の知見はなかなか分かり易い。
ただ、数学の数と規則だけを用いた抽象的世界はどうなるのだろうな。調和を重視する世界観だととても馴染むと想像できる。僕が重視しているのはこの意味で言ったら「間」のような。これはまた後として。
「計算する生命」、めっちゃ面白い。数学の世界では、「分かる」は「操る」の後からやってくる。数を物理的な物質の数とすると、マイナスは存在できない。数直線という数を位置で見るという概念が発明されると、マイナスは反対の位置として世界に可視化される。
これ、今日読んで個人的に目から鱗だったのだが、虚数iは数直線上の0の真上に位置するという認識の拡大。-1をかけることは数直線上で180度移動することで、iをかけることは90度の移動になる(もう1回iをかけると180度=-1)。
認識される空間としての精神世界は、物理空間を前提としながら抽象世界に旅立てる。ただ、新しいことは基本的にメリットになるかどうか知られていないから、そこを旅するのは変人の役割なのかも。哲学も。
虚数の存在を考えると、存在の定義をどうするのかが微妙になってくる。
生物学的な人間の進化論の信念の話。人の信念は適応にかかっているところが多いらしい。僕はあんまり信念がないからしっくりこないのだが、分かり易い成功例があると、それがどんなに居心地が悪くても信じてしまうというはありうるだろうなという感じ。だって、そうした方が生き延びられるし。あと、物とか動物に心があるとする擬人化も適応の一種という話があって面白い。天災を神の怒りとするとかそんなの。
思春期後の安定に馴染めるのかどうかというのも、この辺りにありそうな気がする。
経験則とか社会規範が浸透されてきて、分かり易い成功例ってこういう線路なのかということが信じられるかどうか。僕はわりと外れている人ばかりと出逢ったからか、もともとなのか、こういう人生論も1つの宗教体系だろうと想えるようになり、いまが世界にもっとも馴染んでいる。
神様が見ているか、世間が見ているかの違い。
やれやれしながら素潜り。
そういえば、「デミアン」読了。面白かった。戦争が身近にある世界線は想像すべくもないが、そんな世界でも人は精神世界を拡張することを行動できる。思索を巡らすことより現実の体験が大事だという説も分かる。ただ、個人的には精神世界が物理世界の動きから何を認識するかを決めているから、どちらでも動かないと何したって同じにならないかという説。
自分が何を重視しているか。
調和も良き。整然と並ぶ世界観を突き詰めていったら真理に辿りつけるかも。
僕も似たところはあるなぁと思いながらつぶやきを読んでいた。もともとはバランスとか公平とかとしていた。そう考えると、法学に向いたのは納得。正義の追求ではなく、ルールのバランス。
だから人間関係でも需要と供給が気になっていた。バランスを取るということが相手の要求に従うことみたいになっており、ガタガタではある。でも、僕は人に要求してないから、そもそもバランスがあり得ないということに気付く。
この辺りが分かって来たのが、僕は世界を区分けしないのがしっくりするということ。本もジャンルで読まないし、インターネットと現実も分けていないし、仕事と余暇もそう。
この垣根が、ノミの箱だったのだろうなぁって。
(ノミは箱に入れると箱から出してもかつてあった箱の天井が上限でしか跳べなくなる。by「鉄拳チンミ」)
で、僕が気にしていたのは、バランスではなくて、バランスを取る天秤自体なのだろうなという感じ。いっぱい読んでみてやっとこさ辿り着いた本質。
例えば、人の文章を読む時に普通は自分に何が読み取られるかが問題になる。けど、僕はそれが書かれた背景が気になる。現実的に接する人も同じで、そういう振る舞いをするのは何故だろう、当人の歴史背景を想う。
こういうのはそもそも言語に馴染まない。
言語化と存在の間にあるから、インタビューしても当人もきっと分からない。
人間が気になるのも、間が入っているからと言葉遊び。
僕と貴方の間に何が存在しているのかということが気になる。ここにあるのは量子論的な確率論でしか認識できない世界線。
決めないということは不安だが、決めなくて良い方が心地良い。
行動規範としての主義主張は、精神世界で椅子を取ることだろうが、僕は別に立っていても良い。何かの主義として捉えられたとしても、それは捉える人の世界の話であって、僕の世界のことではない。
僕は人の言語も行動も重視していないらしい。
あくまで間に存在する感じだけ。
これは世界の読みとり方も同じで、専門書は分野ごとで分けて書かれているが、読み手はその分け方に従う必要はない。
もっときちんと僕で世界を観ないとなぁ。
はい、おしまい。
おやすみなさい。
良い夢を。