ずれの間

 

 

 

二度寝。誰かの自暴自棄による事件に巻き込まれそうになり未然に防いだが、仕事までに睡眠時間が全然ない夢を見た。夢から現実に戻る境界で、自分ってそもそもいま何の仕事していたのだっけとあやふやになる。

 

パーソナリティというか事務情報のロードがうまくいかなかったのか、再構成の瞬間に立ち合ったのか。どこかの誰かのフレーズは人で寝る時に終わって起きる時にまた生まれるというのがあったような。

 

脳の障害で再構成されないことも当然ありうるし、完全に再構成されないのが現実世界の終わりとも言える。

 

さておき。

 

本当にどうでも良くて気にする必要がないことと気になって仕方がないことは別ものである。日常での懸念はほぼどうでも良い。僕は割と感じやすい人(HSP)傾向があったのだが、どの感じに影響されるのかが任意であると思ってきて、随分と気楽になった。

 

一般的な治療法は知らないが、人の中にある人物像のほとんどはご都合主義で創られたものであって、更新可能性を眺めている訳でもないし、そもそも当人の精神世界において他人は当然にしろ、近めの他人のこともそれほど見てないし思考してもいないという気付き。あくまで自分の世界においての誰かという思考であって、誰かの世界の当人ということではなかったのかと今更。

 

込み合った休憩室で弁当食べるのが人の気配が多くて駄目だったのが、今はなんてことない。ついでにmixi用にパシャパシャもできる。

 

捉えている世界がずれていただけ。この文脈で想うのは、人はどれくらい日常におけるどうでも良いことを自分の中に残しているのだろうということ。「本当にどうでも良いこと」は生きる上で悪影響になることで、「どうでも良いこと」は自分にとって何の現実的価値もないこと。

 

例えば、今日の月は真上にあって見上げると首が痛くなるとか、はとぽっぽが電線の上に止まっているとか、スーパーの当たりの店員さんのちょっとした心遣いとか。

 

ただ、僕の世界観だと現実性に重きを置いていないから、ほとんどどうでも良いことになる。これは価値の色眼鏡で見ようとしてもなんもきちんとあるがままを見られないという経験知による。きちんと見るより、見たいようにみたいのであれば価値ある現実だけを捉えるという人生観は当然アリ。

 

この通り現実とか現実感は胡散臭いなと想っているのだが、自分の五官が捉える感覚は大事にしている。これは現実に還元されるのではなく、自分だけの世界の感じであって他者と生きているところにある現実とは違う。自分が自分として存在することだから、世界の一員であるという実感とはずれる。

 

僕の大好きな漫画(アニメから入った)に、「プラネテス」という宇宙譚がある。宇宙に誰でも行ける時代になったことによって、廃棄物が地球に対して公転(定義合っているのかは不明)するようなった時代、回収業者をしているのが主人公。その中に、自分の中にある感情は自分のためだけのものだから誰にもやらねぇ! と啖呵を切るシーンがある。

 

僕もハチマキ寄りの感覚で、自分の感情は誰にも理解されないし表現してもしょうがないというのがあった。ただ、いまはちょっと変わってきていて、表現して分けたとしても渡すようなものではなく、減るものではないなという見解。

 

自分が書いたものが他人に読まれることが嬉しいのはどちらかというと渡すという感覚で、贈る、受け取るというイメージと想像する。拵えた物質に近そう。僕は自分の文章が贈り物になりうることは信じておらず、単なる僕の感じの言語的表現のお裾分けというイメージ。書くことによって摩耗したり減ったりする自分はいない。

 

なので、今のところ好きです言い放題。

 

こういう感覚で書いていたからずっと続いている。だからこそ、どう読まれているのか伝わっているのかが気になる。主義主張がある訳でもなく、別に何が伝われば良いとかも思っていない。人としての葛藤も語られない、かといって有用な情報もない、そんな文章を読む変人は具体的に誰なのだろうって。

 

読ませる文章だと見知らぬ人に評されたこともあるが、どういう要素なのだろう。

たぶん論理的でも分かり易くもないよな。心に訴えるナニカがある訳でもなし。

 

言語で語れないことは語るべきではないとウィトゲンシュタインさんは言う。それも真理だが、僕は言語で語れないことを言語化したいと思ってしまう。自分を言語で語りたいからはずれていて、その辺りに僕の文体はあるのか? 

 

 

ところで、信念の話の続き。

 

信念って基本的に行動規範になる。こういう事態に対してはこういう行動を取る。大昔のオオカミや毒キノコが蔓延っていた世界ではその行動規範は死に直結するから生き延びる為に必須だった。これを現代にリープさせると、権威に従うことが社会的に生き延びられることになる。最初の権威は親。次の権威は任意に選べる。科学、宗教、統計、なんでも良い。

 

一昔前、Twitterフェミニズムとオタクの論争を眺めていたことがあった。なんで人って自分の見解を素朴に出せないのだろうって疑問だったのだが、信念のバイアスによるものだったのだろうな。要は、自分を救うための教義体系を選択しているつもりが教義に選択されるようになる。自分が○○主義だと言ったら自分の見解を言ったつもりになるのはどうも変だなぁってずっと思っていた。

 

行動=現実的コストがかかるもので、この規範は現実感があって現実になる。ヴィーガンだっけベジタリアンの上位互換みたいなやつ、もそう。行動ルールに関わる主義に対して、思考の試行は全く現実感がなく、むしろ思考コストがかかる。

 

とか言いつつ、僕は1つの主義で生きることを決められた人は幸せに生きられるのだろうなって想う。僕がたまたま馴染む行動規範を今でも決められないだけ。

 

何かの権威に従えるというのは、適応的に生き延びる優秀な遺伝子をお持ち。

良いとか悪いとかも個人的には知ったことではなく、他人に物理的(社会的)な迷惑をかけない限り突き詰めていけば良いと思う。この意味の迷惑は社会的に語用になりまする。

 

社会的な迷惑を決めている行動規範は、ほんとに他人を害することであって、国家がそれを規制しないといけないというギリギリの網だからここを行動規範とすると人に嫌われます。

 

行動規範は何が良いとか悪いはなく、最終的に当人が決断するもの。

 

 

 

やれやれ。

 

最後に本の話。

 

デミアンって結局何日で読了したのだろう。本を読むことに切れ間がないから日数換算されない。2週間くらいか?

 

ともあれ、その次に何を読むかを物色していた今日この頃。

 

幻想的な図書館の話の新刊にしようかと思って棚を眺めていると、割り込んできた伊坂幸太郎氏。

 

「火星に住むつもりかい?」

 

この前土星人に呑むことをフラれたことだし、月にも移住できないし、火星に住んでも良いかなという作者とタイトル買い。

 

SFではないと思わせて、時代を逆行したディストピアの話。ある行政区画が選出されて住民が相互監視して潜在的犯罪者を刈り取るという魔女狩りの現代版。伊坂さんの小説って割と暴力が出てくるが、なんとなく戯曲的な味わいがある。暴力が出てくるということは創作と現実の間に、と想像できるが、まぁ良い。

 

なんかまだ諸々あるがここまで。

 

また明日。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。