虚無

 

 

怠惰を貪りながら書き取れない自問自答を繰り返す虚無の1日。温度計付きの卓上時計が23度と示しているのに、体感は寒い。寒気ではなく。きっと熱はない。

 

自分がしてきたことを放棄したことが思いの外ダメージだったのかと解釈されるが、異説もウェルカム。言語化すればこれから何がしたいのか、何をしようかなとという感じだがうきうきはない。本当は何もしたくないのではないか、そんな虚無の存在が人と関係して良いのかとか。陰の者ではなく無の者なのかもしれない。個人的には月の者としておきたい(何か月のもの感があるが、僕には生物学上そんな時期はない)。

 

とか、言葉にすれば根暗な感じになっているが、従来の自分からはじき出されるという忌では誕生であり、維持される自分への回帰願望が無意識を通じて書き取られているだけという反対説。感動ってプラスの時にしか表現されないが、当然マイナス方向もありうる訳で、数直線にすれば、どちらも移動距離としては同じ。

 

現実空間の客観的位置づけにどれくらいの意味があるのだろうと思い付く。三次元で捉えらえる現実の空間において、どこか・だれかとの隔たりはメートルとかヤードとか光年とかの客観的ものさしで観測も伝達できる。そして、そこに辿り着くのにどれだけかかるのかも、平均移動速度と時間の掛け合わせで把握されて、これはどんな人間という物質にも適用できるとされる。

 

もちろん表現方法の1つとして分かり易さと伝達の広さとして正しいとは言える。伝達の齟齬が起こらないという意味。

 

ただ、この客観的な把握法に主観的な意味がどれだけあるのかが気になってくる。そもそも発進して平均速度を創り出さない限りどれだけ時間をかけても距離は縮まることはないし、どれだけ客観的に離れている・近いって何か意味があるのか。物理的にどれだけ近く過ごしていても精神的に離れてしまうことがあるのが人だし。僕の可能的世界観は空間を物理的には捉えていないらしい。

 

といっても視覚に入ってくる物理空間がねじ曲がったり、在りえないものが見えたりするということもなく。買い物に行った時に雀が電線にわらわらしていて、聴覚が落とし物の音を時々捉える。

 

ありえない物は見えないとしても視覚が客観かというと個人的にはかなり怪しい。意識的に捉えられる視野は視力とか注意にもよるし、同じ風景を眺めたとしても全く同じものが見えている訳でもなし。そもそも物理的な位置が違うのだから、対象を物理空間から抽象化しないと「同じもの」を見ていることにはできない訳で。

 

虚無だなというところに、もう「正しさ」を決めることはできないのだなという感じがあった。ある尺度から捉えれば正しいということはあっても、他の尺度からすれば正しいとは言えない。正しさを決めずに生きるのはほとんど人としては見られないのではないかって。

 

自分について自明なのは、体が1つ、精神が1つみたいなところではなくそういう風に決めなくても自分で居られるということであって、絶対的自分の存在を捉えている。ただ、これが自信なのかというと微妙なところで、自信の概念って自分を誰かに主張できるかどうかの外向きなのだよな。

 

僕の機構をある程度論理的に言語化することはきっとできる。ただ、これは正しさを信仰している誰かに侵攻することは衝動していない。何かないといけないと衝動している人に、人はそもそも何者でもないって言ったところで何も進行はない。

 

僕はおそらく進行を衝動しているのだが、そこに理由とか志向はない。向上心を持っていると言われると首をかしげるし、目的を持って生きるべしと言われても首が直角くらいになる。

 

目的に適った情報を取捨選択すべしという記事を見かけても、なるほどそういうアクティブな世界線を生きているのかとなるだけ。個人的には情報は勝手に必要な分やってくるという感じの緩さ。情報は行動が伴っていたとしても基本的に受動的にしか捉えられないもの。

 

分かってないことが多すぎると突き付けてくる人生劇場。

たしかに、もっと認識を拡げないと内側も掘り下げられない。わりに掘れてきているのだが、まだまだ。

 

漫画アプリをもう1つインストールして、かつてどこかで流し見て通り過ぎてしまった漫画がもう1回やってきた。タイトルでアーカイブしない僕も悪いのだが、それほど保持衝動していないし、完結まで読めば満足ともならないし。合っている漫画は完結とか関係ない。

 

そういえば、テクストにおける意味と意図。

 

僕の文章は論理的なのか。読み返すと一応整理されているとは思う。言語の規則からはみ出していないという意味。そうして、詩とという非論理の言語(接続詞がないだけで、行間には一定の論理がある感じもする)も収集しているから自由度が拡がる予定。

 

論理と意図は仲良しだと思う。意図的に書くのであれば論理形式と注釈を調えて客観性を高める。日記とかエッセーとかも何を書き取るかに一定の基準があるのであれば論理的ではある。

 

僕はこの辺りが目分量で意図が入り込む余地はあんまりない。本質がこんな奴。

ただ、意図がなく書かれたテクストにも必然的に意味がある。どういう意味を読み取るかは自由ですという開かれた文章を読んだとき、人って何を感じるのだろう。

 

そんな開かれたテクスト、太古の徒然草とか古今和歌集とかにしかないような。

あ、最近1つ2つあったわ。自由にさせてくれる読み物。作者さん方あんまり自由っぽくないが。

 

意図は意の図り、意味は意の味、全然違う。

ここに味という言葉を当てた発明者大好きだ。

 

そういえば、シュールレアリスムには自動手記とは別の系統で「デペイズマン」という流れがあるらしい。翻訳すると「置換」になるとか。物があるべきところにないという超現実の試行。

 

素朴で解釈するとある意味当たり前なのに、人は物があるべき位置にあることを現実とする。

 

鍵とか財布をかつてやたらと置き忘れた時期があったのだが、これって、物忘れとか注意力不足ではなく、それは別に大事でないという反発なのかもしれない。いや、部屋の鍵を忘れたときはお金もなくて、真冬にホームレス体験をした良い思い出。暖を取る為にコンビニに行って、ただ長居はできない。

 

ここから主観的「デペイズマン」を解釈する。

僕は外から見られたとき、動じて居ないとか、緊張していないと観測されることが多い。主観的に緊張していることはあるが、こっちが逆に他者との関わりにおける弛緩的な緊張なのではという説。緊張している体を見せれば何か緩んで見られる。

 

緩んでいるように見られる風に緊張している説。でないと緊張が伝播してしまう。

 

気を遣うことはお金のように交換されるものではないから勝手にしているだけ。

 

この文章も、読める人だけ読めば良い。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。