でざいん

 

 

 

夢には猫が二匹。猫をモフモフしながら寝る実体験はあるから体感的に理解ができるシーン。猫カフェ行きてぇ。尾道だっけ、猫の駅でもふもふしたのは楽しかった。何を対価にしなくても寄って来る。

 

僕はもうペットを飼おうと思っていない。世話がしんどいとかより、世話をすることでもふもふとか癒しを得るという関係性も何か違うようなという感じ。愛玩に生物をもってくるという感覚は理解できるし、特に文句もない。動物動画好きだし。子育てするという世界線になったらもう一回飼うということはありうる。

 

僕が書いていることはだいたいが譲れないようなことでもないし、出来事もそれが大事とか重いとかではなく、たまたま流れの上で書くことになっているというくらいでしかない。だからあんまり面白みを感じられないのかもしれない。割と即興で韻を踏んで音を合わせている感じはあるが、リズム感をもって読めるような量でもなさげだし。

 

書かかれていないからといって、書く価値がないと認定している訳でもない。

時間と宵の制約で言語化が流されている部分もある。というかこっちが本分か。皆そうじゃないかと思ってみては、きっとそうではないような気もすると思ってみる。

 

まぁ、自己を承認するのは自身でしかないという認識だからどれだけの人が読んでいるかより、具体的な誰が読んでいるのかが気になるから、文章を作品として捉えていないのだろうな。それぞれの人が公転なり自転なりをしている中で文章はたまたま交信なり錯綜になるというか。

 

さておき。

 

仕事から。

 

小走り区間はどんどん増えている。帰りに雨が降っていたものだから電車に乗ったが、降り口の階段で皆急いでいる。にもかかわらず速度がほとんど変わらなくて並走小走りに詰まる。別に急いでいないしほんとに急いでいたらもっと真面目に詰まらないようにするから問題はないのだが、あんまり他人のことが見えていないのだろうなという感じがある。同じ速度だったら、後ろに回っても到着は数秒単位の遅れのはずだが、それでも並走を選ぶ真理傾向に名前は付いているのだろうか。1歩線空いていたら後続を滞らせずにぶっちぎるって空けるみたいな譲りはなさそう。

 

別にもっと良くなればという視界ではない。

そういうものなのだろうなというだけ。優先座席が空いて居たら座って優先者が出てきたら譲る満月さんの考え方は俯瞰ができている。

 

仕事の同僚もあくまでそんな感じよな。

仲良くしているのはあくまで同僚だからという当たり前の話だが、あんまりにも同僚の仕事を増やしてしかるべくという感覚がなんとも。それでも自分の仕事はできているから問題ないが、ベテランもそういう所作をする。たしかに分かりみだが、個人的には先生の全体の仕事量が減るように皆が動くという方針の方が合理的な気がする。

 

もちろん人情も大事だが、人情をどこまで仕事に持ち込むかは検討の余地がある。

 

上司の上司が、来週話そうかと声をかけてきたから、来週どんな話になるのかちょっと楽しみ。3月末退職という流れになるのだろうな。個人時間だと決めたら即動く遊動性で良いのだが、社会時間の緩慢さは仕方ない。社会時間は個人時間より圧倒的に遅い気がするのだが、時計の感覚は人それぞれ。

 

 

こういう余計なことを考えているし、書いているし、ほんとはもっとぼんやりするようにした方が良いのではないかとふと変な感じになったお昼休み。ふと満月さんに会いたくなった。寂しいとか縋りたいでもなく、単なる会いたい。

 

いや、会ったら見えるが、僕はそんなに緻密に世界を解釈していないし、おおらかでぽえーとしている空気感のはず。これはこれで本質。反応が鈍めなのは頭の中にある情報量が多いからではなく、僕がさばき切れていなかったからのような気がする。ちまちま日記で開拓したことによってなんとなく見えてきたような感じ。

 

物知らずだし、特に何か解決するようなこともなく、別に努力もしていない。

この自分を守っていくには情報が足りなかったから、10代20代はぼんやりさせていた。良く生き残ってここに辿り着いたと思う。有用かどうかで世界を判断しないのは食いつぶらせる可能性があったのに。ここを越えたら食わず嫌いがなくなってきている。

 

整体も開通したから、今度は占い師に診てもらうところか。

直近の元恋人さんが僕との関係を占ってもらったときに、僕のことを「ややこしい奴」と評したらく、ちょっと気になっている。縋るための占いではないから、良い人に当たったら面白そう。

 

内部でぼんやりさせないと、微妙にタブーっぽいとこも思索の範疇になってくる。

 

本日ふと考えたのが、人間が過ごしているのは物理空間ではく社会・公共空間だよなというところ。人間の物体的な存在はオスかメスかしかないけども、そこで分類されない性差の概念を創出してきている。

 

これがほんとに発展なのかというと微妙だが、そもそも性性のらしさの概念も便宜的に設定されているものだよなぁと。僕は化粧には特に魅かれないが、スキンケアみたいなことはやっているし、自炊もしているという意味では女性性寄りではあるし、スカートの話もここに寄って来る。

 

もともとのらしさという観念が便宜だとすると、個人の中の性は単なるグラデーションみたいな色合いでしかなく、ここの認知は拡がっていると思われる。

 

個人的には肌にダメージを与える化粧ってどうなのだとは思っているが。

装いとしては服と同列だが、なんで女性だけが顔という当人の外から見て一番の存在にリスクを負わないといけないのか。

 

こういう個人的な空間としての精神性はどれだけ拡がっても良いとしても、公共空間における性差をどれだけコピペするかとなってくると話は変わってくる。

 

パートナーとの結合を公共に認定される制度ってずっと前から破綻していた気もするのだが、婚姻制度をどう設定するかは社会観だけはなく、税制とか戸籍制度とも関わってくるkが、単純に同性婚が認定される国が進んでいるという訳でもない。

 

日本の感覚は物理的な自然派だから、基本的には次世代を産む関係が家族になるし、それはそれで悪いことではなさげ。ただ、イレギュラーの婚姻関係をこの既定路線と同列にするとなにか歪みがでてきそうではある。僕は不妊の人とパートナーになってもどうでも良いのだが、社会的にそれを許さないという風潮は、制度をどれだけ風通しが良いものにしても変わらないような。

 

あと、性差を細分化して認定した後、公共空間のお手洗いってどうなるだろうなということが気になる。今のところ物理的・生物的な性差で二分化されているが、中立の人の為のお手洗いとか、無属性とか、それ用の場所を建築するって現実的ではない。

物理的な指標で分類できない人を分類してくれってなかなかの無茶振りなような。

 

公共空間と個人空間がなんとなく一致していると想えてきているのが現代なのだろうか。

公共はもともとの自分では居られないというのが当たり前なはずなのに。

 

観念デザインがどうあるべきかは思索として面白そうなので鍋に入れてぐつぐつさせておく。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。