なしらず

 

 

 

10分で1夢の微睡み。何本建てか分かないほど出てきたから言語化できない。

暗喩的ではない無関係のファンタジーみたいなのが多かったからだろうな。面白いという印象だけ残っている。

 

さておき。

 

小走り。出勤はもう少し遅く出発してもいけるかも。ただ、片手だけビジネスバッグを持っているからバランスが悪い。帰り道に買い物袋(3キロ強)を追加して両手にバッグを持って小走りをしてみたら全く距離を稼げなかった。左手の筋肉がぷるぷるするし。ドアツードアで小走りできる体力にまでなる必要はないが、運動環境は日常生活でいくらでも改善できる。仕事中に隙を見つけて肩甲骨を回すとか。

 

何か特別な行為時間を作るよりまずは日常でできることをすべきと魂を磨く本でも書いていた。日常に幸せはいっぱいあるしな。

 

精神界で言うと、今日仕事終わりにイレギュラーが続いてやらかしたのだが、全く罪悪感が無い。どうしたことだろう。反省はしているし、次はもっと丁寧に処理せねばとは想うのだが、そんなことをしてしまう自分に存在価値が無いという想念が起こらない。大げさなようなこの想念が分かる人は結構いるような気がする。失敗しないようにしないとそこに居てはいけないみたいな想念とか、だからこそ存在して良いんだみたいな縛りみたいな強迫観念とか。

 

失敗を赦しているというか、自分の中で理由が分かっているから次にはどうにかできるし、苛まれる必要がないのだなという感じ。こんなに気楽に生きていける人が居るのかと自己ながら発見。気楽さは世界の鮮明さに繋がるし、なるほど、こんなところで幸せを感じているのはまだまだ。さらに先がありそうだ。

 

自分の誤りを謝ることに抵抗がない。

 

きちんとすることと、きちんとしなきゃいけないという想いは特に連動していないらしい。

後者はとてもしんどいのに前者と完全な一致は無いし。何回も同じやらかしをする人は、後者の想念が強すぎて余裕がない場合と、別にそれでも問題ないと動くがない場合があるからややこしい。自分がこうだから世界に合わせなくて良い、できるのに駄目もそんなところ見てくれないから良いや。

 

帰宅。お湯の出の問題で今までのルーティンでは通用しなくなった。そのためタスクの優先順位を再構築する必要がある。お風呂読書するためのお湯を最低限溜めるためには、調理タスクに水を出してはいけないから洗い物と下ごしらえは先にする。アイロンがけとかレンチンは後回しで良い。日常に無意識でこなされることができない作業が増えるって楽しい。解決していかないといけないタスクが増えてなんぼ。

 

スピリチュアル系の本を読む前から無意識の意識化はテーマにして生活してきた。無意識は経験則というより、経験で収集したデータをもとにかなり論理的に判断している。酔っぱらいが帰巣できるのもそういうこと。記憶(意識)が飛んだときでも普通に会話をしているらしいから、別の回路があるのはたしか。意識が不鮮明の方が社会的にはより機械的に動けるという節もある。これが頑張るとか苦にしか対価がないという想念だと想っている。

 

 

ともあれ。

 

本の話。

 

昼休憩のリブロで「整体入門」という本が目に入って来る。年末に整体初体験してなかったら見つけることができないという時点で世界は客観では在りえない。立ち読みすると「気」の観念が出てきて、昔の僕では信じられなかったかもしれないが、最初といまからすると目に見えない感じが世界にあることなんて当たり前のことで、自分の体をセルフケアできそうで楽しみ。今日は買えなかったから明日買う。

 

ただ、お風呂読書の導入文の岩波文庫やらちくま文庫が今7冊くらいあるから、これ以上増えると運ぶのが大変ではある。まぁなんとでもなるか。

 

やれやれ。

 

もはや、国語のお勉強をしていた頃に自分がどのように文章を読んでいたのか分からなくなってきた。言葉の意味だけを追えない。国語のお勉強だと、この下線部のフレーズは何を意味しているのかで選択肢があってどれが正解かみたいなことで、おそらくそういう一意の意味があるように書いたり読んだりする人が多いはず。noteの記事を読んでいても意味が全然ブレないのすげぇなって。

 

ただ、そういう文章って、あんまり読み手としてのイメージが再現できない。あくまで書き手と読み手が分離していて、間の余地がないというか。そういうのが最近の文字世界であるならば、僕の文章が読まれないのも当たり前。ここはどうでも良い。静かに読んでくれる人が居るみたいだし、だったら僕の世界をお裾分けしとこうかというくらい。

 

まっとうな読書感想文とか読書録が書けないのは、本は外に在るものではないという感じなのだが、通じなくても良き。

 

精神界ばかり書いているが、社会界とか人類界のことも面白い。

 

「暇と退屈の哲学」で、もともと人類は遊動的に世界を動くことで発展してきて、空間を動くことで脳の容量を消費していたという話。危機感とセットとしても、探索能力とか情報の更新において移動することを越えるものはない。

 

これを無理やり定住化したことで、今で言う社会のシステムが精神的な空間を拡げるように発達したらしい。物理的な空間が狭くなったから、概念的な空間で遊ぶために芸能も含めた社会システムが爆発的に発展した。

 

らしい。

 

たしかに、こういう意味で言えば、世の中は目に見えないものに溢れている。にも拘わらず、物体みたいに見えるものとしていることが多い。もっとも広いのは国か。見えないし触れないし、聞こえないのに、存在として疑似物体みたいに認識されている。

 

僕の中では相手の機嫌は物体ではあった。

いまや機嫌は気分だとしかしていないから、当人の存在の範疇においてはかなり優先度が低い。人の存在は、当人の意識的な自我とはズレている。

 

こんな話、経験則ではない領域だからなかなかブレーキが踏み込まれて筆が進まない。

確証がないのは問題ないが、読み物として成り立つのかというか。

 

そもそも、人って言語でカバーできる存在でもなく。

そんなの当たり前か。

 

はい、ここまで。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。