実存に対する

 

 

毎日楽しい。これは楽しい出来事がある訳でも気分が良い訳でもなく、外が必要とされない楽しさ。ポジティブで居る必要もネガティブを卑下する必要もない。いや、人とのやり取りも楽しんでいるが(無が返ってくるのも一興)。

 

あと、自分に腑に落ちる世界観が見えつつあること。

愛とか、幸せとか。

 

 

昨日添い寝について書いていたからに違いなく、夢でそういったことしていた。夢の反射神経凄いな。誰でも何でも登場させられるのでは。就学旅行、いや中学時代に軟式野球部で四国大会に行った時に何人かで泊まった旅館の部屋みたいなところで雑魚寝をしていると、女性(モデルは明らか)が僕の布団に入り込んできて、抱擁した。舞台は実体験からきているとして、エピソードは、村上春樹さんのスポイルされた美少女が入り込んで云々かんぬんを下敷きにしていそう。あのシーンなかなか衝撃的だった。意味が分からなくて。

 

そうして、抱擁したとき、何やら変な感じがある。言語化すると、満たされている安心感と、何か欠けている不安感が同時に起こるみたいな。でもこの感じってかつての恋人さんと実際に添い寝していたときにもあった、実感の再起だった。安心感の部分だけしか感情として読み取れなかったから、僕は人とくっついて寝るのが好きなのだと自覚していたが、どうやらちと違う。

 

目を覚まして。本日の前半はぼーっとしていた。漫画をどんなときでも読めるのは、頭の中で展開する余地が少ないからなのだろうな。色んなアプリで1日1話とかで20冊くらいは並行読みしている。まぁ、机に向かっていていなくても勉強、いや研究と呼んだ方が適切のか、はできる。頭の中に問いを常に置いておく感じ。煮立ってない鍋だらけ(見えない)。

 

ふとHSPの人の記事を読んだ。僕もそうだったというかこれは性質だから変わらない訳だが、この過剰に感じてしまうものって、あくまで当人の社会的世界観の範疇なのだろうなと捉えてしまうと、外部から入力される情報ということになる。影響されるかどうかは統御できなくて、それをどう評価するかはある程度決められる。

 

個人的な所感でしかないのだが、社会的な相対価値とか誰かかの感情って、そうだとなっていると経験則(環境)が形成しているだけで、客観的な世界ではない。

 

1例として、スーパーでの人の動き。僕はこのご時世で良かったなと思うのが、レジと通路の間を行列で埋めなくなったこと。このご時世になる前からやっていたが、後ろの人はそんなことをお構いなしに埋めてくる。なんとなく自分のことしか考えてないのだろうなと思うが、間を開けるようになったことで誰かが通れるようになるという社会的効用がある。

 

あと、本日、なんで袋詰めするスペースでレシートを整理して場所を無駄に取る人が居るのだろうというのを眺めていた。後から来る人が居るのだからなるべく早く詰めて場所を開けなければとしている。で、この自分がしていることの評価によっては、自分が社会的に相対価値がないとも捉えられる(最近までやっていた)し、なんで皆何にも考えないのだと馬鹿にすることもできる(こうすると怒りの発生源になりうる)。正しいことがリスク回避とすれば、この事態に家族連れでスーパーに来るってなんなんとか。

 

希死念慮の時に、これほど社会的無用性を考えているかというとそうではなく、願望のために分かり易い理由として社会的に価値ある人を空想しているだけ。僕はおそらく境界線上くらいの性質で、希死念慮に支配されそうな自暴自棄だった時期もなくもない。

 

今となると、僕は自分でないことが良くなかったのだろうなという感じ。

この世界に感謝はしているが、個々の人を感謝として捉えるのはちと違う。それだったら、太陽とか空気みたいな世界の構築物として人を見ることになる。

 

 

ところで。

 

お絵描き楽しい。「絵と言葉」で、日本人はフリーハンドで円が書けるのはアイコン文化でアイコンを描くのに馴れているからで、アイコン禁止のイスラム圏では書けないらしいとか。

 

お友達、もとい、お絵描きの師匠と呼ぼう、がデッサンの神髄を書いてくれている。どう描いたら上手くなるかみたいなレベルではなく、「そもそも見えているように描くとは」というイロハの「イ」の話。

 

たしかに、人の視覚が捉える外界って、視覚情報のあるがままではなく、脳に取り入れたのちに経験補正がかかっているから実像ではない。実像を見ているなんて信じていないから問題ない。実像でないからか視覚に訴える芸術分野がある訳で。

 

やってみたらそりゃあまぁポンコツ。まぁ描いてきていないのだから当たり前。僕は自分がしばらくポンコツなのは経験上知っているから気にならない。絵が苦手という自己レッテルは他人というか環境に貼られたものだから引っぺがす。美術の授業でもデッサンのイロハとか教わらなかったような。何も教えず人権ポスター描けって無茶振り過ぎないか。

 

まぁ、文章もSNS以外で褒められたことはほとんどないし、ただやっているうちにこうなっただけだから、絵も続けていればある程度自在に動けるのではという感じ。当初の巧拙を決めらなかった時分ではたしか好きだった気もする。

 

という自分に対する楽観は、期待とは違う。

 

期待が良い風潮とされている現代社会は壊れれば良いと思う。読んでいる人の記事で「生きていればそれで良い」という無条件の好意に馴染まないというフレーズがあったのだが、そもそも生きているという条件というか期待ありきだからなんよな。生きていることが無条件に価値があるという前提から来ている期待。友情が壊れそうだから当人にコメントするのはやめた。

 

 

ここで、冒頭の抱擁したときの欠けている感じ。

 

人の物的側面と「もの」性を分けて捉えているのではという発想。

 

人物という言葉があるのもそうなのではと繋がる。人が物としての存在だけだったら、あえて物と繋げなくても良い。で、この人物の語彙も、どういった人なのかと見て取れる意味になっている。物証的な意味合いでの人。

 

たしかに、こういう意味で人を捉えている人は多い。おそらく自身でさえも。

だから相対的な物理的な位置関係と連動した意味で自分を気にする。この意味で人は欲求の対象になりうる。生の物と物の関係として。そうして滅んでいく物。

 

ここは分かり易い世界。物としての人は椅子が決まっている。ただ、人間の認識能力では足りない。

 

「もの」としての人を考えると、スピリチュアルとか宗教的な意味合いに近くなってくるのだが、これだと、魂とか神様とかの物として名付けてそういうものだとする信仰になってどうもよろしくない。こういう意味ではアイコン禁止令。

 

「もの」にはプロセスがあるし、具体的な人には物理的な因果を排した思考もあるし、触ったり見えたりできるものではない。人の事は分かることがないという諦観もある意味正しいと思うが、「もの」としての関わりの本質は、見ようとする、認識しようとすること。

 

情報は物っぽく捉えてられていて、いくらでも調べられる今の世界においてあんまり意味はない。そんなことより、何を考えているかの方が大事。

 

という感じで、「もの」としての人は物とは別に実在していて、人間という概念からも離れている。概念は物でないが、人は物でもある。「もの」としての人に一番近いのは、その人が何を認識しているかであって、表現物が手掛かりになる。

 

僕は宵顔さんの「もの」としての存在に惚れてしまったから、物的関係があるかどうかを問題としてないらしい。だからこそ、物的当人に触れたいというはあるし、なんなら勝手に幸せになってもらった方が良い感じ。

 

僕が、物としての「愛」に不信感があったのがこの辺り。愛着って、愛が物に着くって意味っぽいし、何とか愛みたいに、学習作用があってからみたいなのがうさん臭くて。

 

個人的なところで、「愛」とは、対象が自分とは無関係であったとしても実存として許容できること。もしくは、ただ眺められるとか。要は、切り離し。

 

自分の為にやっていることを愛と呼ぶのはナルシズムだと思う。

愛しているからこうあるべきみたいな期待。

 

こういうのは知識がいくらあっても変わらない。

 

「もの」的人は尽きない。

 

 

はい、どうもすっきり。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。