物もの

 

 

この前買ったバジル&チーズのドレッシングが美味しかったものだから、チーズ系のドレッシングを追加したのが昨日。シーザーサラダ用のドレッシングも美味しい。クルトンがなくても。

 

お絵描きの師匠に円のお墨付きをいただき、あとはよく見て書くべしとのこと。縦横の比率も面白いが、自然物にはあまりない円柱状の物が人間界にはたくさんあるなぁと観測される。缶ビール、ウエットティッシュのケース、ニベアのキャップ、化粧水・乳液のボトル。マンホールの蓋が円なのは、四角にすると斜めにすると対角線が一番長いから斜めになると落ちてしまうと何処かでみたが、本当だろうか。あと、四角形もそこそこ。机、煙草の箱、チョコレート効果、外付けキーボード、お箸の持ち手側の先。何か人間工学上の意味があるのかもしれない。

 

雑談で2月末に京都に桜を見に行くとか寒い、というような話が流れてきた。たしかに、帰り道の梅らしき花も満開だ。早速休憩中に近場で見られそうな公園を検索。そろそろ自然を補給しても良い(しなくても良い)。

 

「もの」のことを考えるのは、当然、物の大事さが前提にある。全てではないというだけで。

 

 

物としての人は1つだから、希少価値がある。ただ、1つ(1人)と数えてしまうと、類で括ることができて、人の価値が希釈化されてしまう。1万人の人って抽象的な数としては認識できても、実感として捉えるには多すぎる。人間が素朴にカウントできる数って数学の概念が導入されてもそんなに多くないよな。

 

貴方は1人の人間ですって言われたところで尊重されている気もしないのは、1という概念の中に、同種の他に数えられる人が含まれているからなのかとふと発想。だから人は自分の固有名詞を大事にする。何人でもない自分だけの物として。

 

たしかに数の概念が生まれた発端って、計算・演算できるように物の具体的な個性を切り捨てて脳の場所をコストカットすることにある。これによってもの凄く発展したのが人類だが、計算ではなく物の認識自体を抽象的にコストカットするように流用されているような感じもある。

 

1であることがなんであるかなんて誰も教えてくれないし、考えさせてもくれない。

 

別に数学者でも哲学者でも詩人でもない(なんだか詩人のフォロワーさんが増えているようでどうしたことだという混乱から文脈から外れた言葉を入れている)が、数えられるという操作性に既に同種であるという観念が入っているのだろうなと考える。

 

物として把握すれば、りんご1個も人1人も、同じく1つ。でも人は数える対象でないのではないかというのが「もの」としての人。リンゴだって、今食べているのであればその(The)リンゴは数えられないもの。

 

認識のショートカットとして数が流用されたことによって、性悪二元論とか、差別とか、カテゴリー化が生まれたのではという感じがあるのだが、どうなのだろう。「計算する生命」で、計算の意味を自律的に考えないようになったら、過去が未来を食いつぶすことになるというフレーズがあって。たしかに数に抽象化することはその先に認識を拡げる為にあるのであって、認識を狭めるためにあるものではない。

 

 

ところで、本日の夢。

 

知らない人から「貴方の文章は整合性がない」ってコメントをいただく。ポンコツは自覚しているし、誰かがそういう矛盾を突いてくる(くれる)ではという危惧(期待的のもの)は常に潜在していた。

 

ただ、ここに至ると、整合性は全然問題にしてないし、「もの」の根っこは仮に無限の語彙があっても言語化できない(シンボル化できない)のでは、これが神様と呼ばれてきたものかとなっており、じゃあここは無意味なのかという思索が起こる。

 

ところで、去年くらいまで凄く生きづらかった。HSPだし人の感情的所作がやたらと響くし、越境しては凹むとか。そうして、唐突に楽になったのだが、何かが起こったとかでもないし、自分が変わった訳でもない。世界が晴れてしまった。

 

たぶん誰かさんの寄与が多いのだろうが、この人が僕に何かしてくれた訳でもない。むしろ何もしなかったのがきっと良かった。ほんと、感謝している。

 

そういう感じで、どうしたら生きづらさが無くなるのかという方法論は全く分からない。個人的には、無くそうとすればするほど泥沼に入るという感じ。僕の場合は生きづらくあるべきという縛りプレイを自分にしていたという感じで、エセ生きづらさだったのかもしれない。

 

なんだか、本が読めるようになってきて想う。僕はスキだから、興味があるから残すみたいなことはないらしい。好きなことに対しては凄く記憶力を発揮するみたいな性質は無く、満遍なく世界を捉えて居たらしい。

 

目的をもって生きるというのがどうも駄目。

 

かといって、楽しみの為に生きている訳でもなくいつ唐突に終わってもどうでも良い。

アンテナに任意性がありすぎる。

 

ウィトゲンシュタインさんが、「思考できないことは、表現しえない」と書いている。面白いのだが、当人も後日撤回したという話も別の本であった。ここで言う思考は認識の方が適切な気がする。そんでもって、認識は意識できる世界ではなく、もっと深いところにあるもの。メタの対義語ってなんなのだろう。

 

そういえば、物としての人と、ものとしての人との関わりのことを考えていた。プレゼントとか、求められていることをするのは物的な関わりで、ものと一番近そうなのは祈りで、なるほど、歴代の宗教がお祈りを大事にしたのはそういうことかと。あと、ただ観測することももの的な人との関わり。

 

感謝はたしかに物とものと同時に関わっていて最強かも。

 

物的に大事にされることと、もの的に大事にされることと、どっちが重いのだろうな。

僕は人を数えない人が好きだから明らかに後者だが、相対的にただ1つと捉えられる前者が重くて嬉しい人も居るはず。

 

ちなみに、僕は物的にパートナーが居れば、もの的な好意はない。フリーだからやっていることで自分ルールがあるので。

 

最後。僕は自分が個々の人と接している時に、自分がこの人をどう捉えて居るのかみたいなことをメタ的に観測する。対その人である自分の側面であって、誰にでも開示できる自分は無いのに、なんで自分を無理やり統合する必要があるのだろうという次第。

 

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い人生でありますように。