進行形

 

 

 

夢に幽霊は出てきて良いのであれば、生霊も出てきて良いのでは。ふとした想起から生霊論の思索。生霊の発生において負の想念が多いのは重いから人のカタチを保てるから。正の想念は軽いから霧散して漂っているのでは。

 

ちなみに僕は0感なので何も見たことはないが、想念の起こりが脳の電気信号と、環境からの読み取りだとすれば、単なる頭の中の想いが外に影響を及ぼしうるというのは自然。想いという無形なものを感じるアンテナはなくても、信念までいけば行為とか印象になるのだから他人でもその輪郭は見える。想いは最終的に環境になるということ。

 

思索にここまでという限界は要らないという信念は僕にとって自らの環境になっている。

 

 

さておき。

 

本日もわちゃわちゃしていた夢だったが、深く寝ていたというか意識を手放していたためあまり残っていない。意識を手放させるものは絶望の他に安心がある。僕は宵顔さんの存在に安心しきってしまっていることを諦めたらしい。無根拠だが理由がないゆえに抗えない。添い寝しなくても安眠してしまう。

 

キルケゴールさんの絶望論は中身をもったいぶっていて不明なのだが、肉体的な死よりも何か凄い病みな感じ。「死」とは過ぎ去ってしまうものという観念はしっくりくる。この日記にも書いたかと思うが、関わりが無くなった人と肉体的に亡くなった人の違いが分からなかった。僕の中では僕が生きている限りどちらも生きている人みたいなもので、情報の更新がなくなったかどうかはきっと本質ではない。

 

生殺しみたいな生き地獄の感覚が絶望なのだろうなと予想している。

微睡みの中でいたときそんな感じだったから、分からなくもない。

 

うってかわって、僕は「いま」が一番楽しいのだなという感じを捉える。引き延ばされた今ではなく、瞬間でもなく、全部がいま。ポジティブでもネガティブでもなくひたすら見るだけ。

 

昼休み。体感温度でそろそろコートをクリーニングに出さねばと思いつつ、引き続き空中庭園。やはり見間違えでも願望でもない、レモンは黄色が増えている(一瞬宵顔さんに事の画像を送り付けそうになったが何故か抑えた)。ベンチの空きが1つしかなくなんとか座ることができた。さらにもう1人やってきて、どこに座るのかと思ったらすでに座っている人の隣に座って、なんと、と思ったがどうやら知り合いらしい。良かった。

 

食べ終わる頃、また1人。待っているようだったから早めに席を空けた。あまりベンチを専有し続けてはいけない。ゆっくり食べて下されと公園を後にする。

 

帰り道。厳密な満月かは知らないが、月光の面積の何倍分も拡がっている。あまりに大きくてうお、と声が漏れる。自然美の極致。それとは別に、昨日書いていたからか、建物という人工美に目が行く。建築物っておそらく無駄なく構築されていて、例えば階段の高さとかも歩きやすく計算ずくだろうし、外から見て違和感がないかとか、もろもろ考え尽くされているのだろうなと見ると、機能美の極致。別に美術館にあえて行かなくても、日常に芸術品は溢れている。もちろんこういう下地があった上で美術館に行けばもっと美を味わえるのだろうが。

 

「考える身体」、「芸術学」曰く、美は味わうものということだが、これは人生、ひいては世界も同じことだとしたい。全部を自分で味わうのがこの現世なのだから、美に限定する必要がない。

 

時間とか空間を物と捉えるのはまぁ分かるのだが、素朴に捉えると人はそんなところでは生きていない気もする。

 

少し法律学談義。

 

法律は社会の常識としての時間と空間の中で存在している。約束と現実の時差を債権債務としたり時間の経過で権利を取得・喪失する時効制度があったり。このルールは社会の発展に寄与したし、安全を提供した。安全に関しては時空というより暴力を個人から奪ったことだが。今までお勉強用の外付け知識として収集していたから、思索に挙げられるようになってなかなか大変(楽しい)。

 

で、法律学における「物」観。民法でいうと物とは所有権の対象だから権利の客体としての有体物になる。有体物の定義は、「物理的に空間を占めるもの」。これで言うと人も物なのではとなるが、人は権利の客体にはならなくなったため除外。言葉として残っているのは、人質。人は質の対象だった時期がある。刑法上の物は財物と言われる。有体物ではあるのだが、電気も財物とみなされたりして、若干範囲が違う。

 

「物」を有体物捉えるのは、有体性が最小限度誰でも認識できるから、ルールの対象にできるという意味合いくらいしかないのだろうなというのが素朴な感じ。ずっと有体物に特に何も価値を感じなくて、感じないといけないと強制してきたのだがこういう認識で良いのかとなって軽くなった。有体物って経年劣化していくし、価値の置き所は占有よりも効用なのでは。

 

ちなみに、「占有」も法律用語で、「専有」とは違う。定義は「事実上の支配ないし管理」。事実ってなんだろうなとなるが、事実と物理と似たようなものなのだろうか。おそらく物理よりは観念寄り。

 

ただ、ここでいう「有体物」の物理も最新物理学がアップデートされている訳ではなく、あくまで常識的な感覚としてのもので、この常識はニュートン力学から更新されていない。「思考のすごい力」を読んでいるとむしろこの常識は退化だったのではとなるが、詳細は原典を読んでみると良き。

 

こういうそもそも言葉がどういう意味から来ているのかって思索していくと迷子になる。言葉の意味は語意でなくて観念なのだよな。突き詰めて行けば肉としての人間の動きだとは思うが、本来の意味を認識することにどれほど効用があるのかは微妙。僕は迷子になりたい質だから問題ない。より迷子になるのが僕の人生かもしれぬ。

 

 

本の話。

 

物語に逃避したことはないから小説を読むことが現実逃避だという言にクエスチョンだったのだが、伊坂さんの「フーガはユーガ」を読んでいてなんとなく分からんでもないなと感じた。

 

物語って、どんなにハッピーエンドでも何か後ろ暗さがある。これは言わば当たり前で、創作者は現実で実現できない想念を物語を媒体として表現しているから。伊坂さんはかなり後ろ暗い体験を背負っているという味わい。

 

もっと昔だとその社会に対する鬱屈を物語という形式で世に伝播する機能があったのかもしれない。あんまりそういう古典は読んでいないのだが、ドン・キホーテとか宝島とかがそうなのではという感じ。ガリバー旅行記(アニメは見た気がする)もか。

 

後ろ暗さだと分かりにくいが、反社会性だとどうだろう。

社会に馴染めて一生を穏やかに過ごせる人に物語を書こうとする衝動は芽生えるかどうか。馴染めているかどうかは社会的な立場とは別問題。

 

こういう風に見たとき、インターネット世界における言語化にも、日常生活では書けないことを書く後ろ暗さが漂っている向きがある。

 

自分の文章を日常の生活圏の人に見せないのは、後ろ暗さではなく、読んでも分からないだろうし、たぶん読めないだろうなという感だった。感じを現すためには文章という媒体が適切だったというだけで、文章を書けるということで優位になりたい訳でもないし、僕の中身に興味がある訳でもないだろうし。

 

場所を取らないからインターネット世界に存在できる。

 

 

物語を読むことにも後ろ暗さはない。自分の性質と近いかどうかで選んでいないし、そんな物語はやってこなかった。今となってはで、読書家の大多数は自分に合うことを問題としていて、それが当たり前なのかとしていたが、それだったら認識が更新される物語に出逢わない。

 

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

暖かくしていますように。