感情の名前

 

 

 

珍しく日記を書く前にタイトルを思い付いた。普段は枠を決めずに書き始め、書き終わってからなんとなくラベルを貼る。てきとうだから被ってないかといつも気になる。今のところはなさげ。

 

 

それにしても殿堂入りのはずの人が絶妙な位置に陣取っている感。弄ばれているのかもしれない。ただ、僕は何も損なわれてない。それでも良い。むしろ祈るのも挨拶も正の方向に僕を動かす。

 

ところで、僕の観測圏の方々が美味しそうな料理を作りなさる。庶民派な僕からすると隣の芝生が青々としており、寝そべってみたくなるところ。本日のメインは、豚肉とブロッコリーの芯とエリンギと玉ねぎを塩コショウで炒めている最中、この匂いは、カレー味が合うはずだと思いつき、水、カレー粉、ウスター、ケチャップ、めんつゆを投入し、隠し味にチョコレート効果(72%)1個を加える。完成品。これカレー味ではなく、ふつうのカレーだわ。そこらのレトルトより濃厚で良い感じ。ただ、イメージとはちょっとずれた。カレー味のおかずでなく、レトルトカレーが食べたくなったときに作るやつ。レトルトカレー食べたくなった時にキッチンに立つのかというと微妙だが。

 

 

仕事は省略。

なかなか合間がなかった。

 

 

本題の前に本の醍醐味。

「海底2万里」が無茶苦茶面白い。ずっと書きたかった。書く前に時間切れになっていたからここで無理やり挿入。

 

SFというジャンルなのは分かるが、おそらく当時の科学技術でもありそうでもないという絶妙な塩梅で書かれているのだろうなという臨場感が楽しい。ネモ船長のキャラも喜怒哀楽激しくて良い。「ふしぎの海のナディア」とはイメージが変わってくるが、昇華している感。アニメ化の成功作品だろうなと。

 

場面が頭の中でかなり鮮明に映像化される文体だから、アニメ化もしやすかったのかもしれない。この、どういう文体については「絵の言葉」で書かれていた。視覚に訴える文体と聴覚に訴える文体があるよなぁみたいな。ダンテの「新曲」をボッティチェリが絵画化したという話もあって、どちらも未読で、読みたい。心象の中でしかイメージできない文体というのもあるみたい。例としては「世界で一番美しい花」とか。

 

文体の分類論の視点は楽しい。読んでいて登場人物がカクカクする物語はともかく、映像化なのか心象化なのか、絵画化なのか、音楽化なのか。詩は基本的には当人の心象イメージを普遍化する試みなのかも。思い付いたのが、抽象化。エドガー・アラン・ポーさんの作品は概念的文体っぽい。美学の本が終わってから読み直そうと思っている。

 

ここまで来ると、自分にとって面白いかどうかではなくなってくる。美への感覚に普遍的妥当性(客観性)があるというのがカントさんの説っぽい。文体にも惚れている人が、誰かに褒められているのを見たとき、まぁ当たり前よなと思った。宣伝する必要もなく読む人が読めば美点は明らかだとこの感覚を解釈すると、カントさんの説に近い。

 

でもそうすると、美を発見するためには、何らかの訓練、いやよく分からないものが必要なのかもしれない。ここも「もの」としての自己になれば、に繋がるのかも。

 

どうでも良いが、僕の文体ってこの分類で言うと何になるのだろうな。

言葉に表象されるものは静的であるはずなのに動的なのではという感じ。進行形を言語化している。

 

ん、まさに生活的文体?

 

 

さておき。

 

感情とは何だろうと素朴な思索。

 

どこかで、「感情は他者によって生まれる」というフレーズを読んだことが取り出される。ここにおける「他者」には自分の想念も含まれる。だって、楽しい予定があることを思ってワクワクする感情は今それが起こってないのに、今として反応することだし、悲しい過去や出来事に対しても然り。想念という他者が感情の応答を決める。

 

これとは別に、僕はもともと無表情の人で、感情を表出することができなかった。今や表出を見て取る他者が居ないから、漫画で泣いたり専門書で笑ったりし放題。

 

で、一種の社会学的考察になる。この、表出すべき感情は名前が付いていて、ある状況に対してこういう感情の応答をすることで社会的に同種だと認証されるという儀礼的な趣があるのではということ。こうされたら嬉しいみたいな正の方向でも、こうされたら普通は怒る、こういう状況に鳴ったらイライラしてしまうのは当たり前でも同じこと。

 

経験則上、感情を言葉として共有したい人ってやたらと多かった。

 

こういうのは感情そのものではなく、状況・環境に対する応答として名前が付けられていることに引っ張られて定義されている心の移ろいの一部でしかないのに。

 

この色付けだと、ある閾値を越えて名前が付けられるようにならないと感情ではないということになるが、心の移ろいのほとんどには名前が付けられない。定義されていないから意識で観測できない。ざわざわとかそわそわとかに色が付けられないように。

 

別にこの社会的なざっくりな応答的感情の定義に違和がない人はそれで良いと思う。これって塗り絵みたいなもので、ここにはこの色を塗るのが正だと思えれば(お絵描き視点が早速発揮されている)。

 

試みとして、自分の心の移ろいに、自分で色を塗ってみる。例えば、殿堂入りの人に対してはさざ波とか明滅が起こるし、イラっとした時の心の移ろいは「惑われ」との名付け。

 

どの色(言葉)を当てるのかはなんでも良い。ともかく感情は誰とでもシャアできるような物ではなく、自分のものでしかなく当人が判断する範疇のものであって、表出するかどうかは別のこと。

 

それを認めてくれたり観測できたりできない人とは関わる必要がないというだけ。

自分の色塗りだけが大事だとなるとそれを認めてくれる人を探しましょうとなるが。

 

他人がこの文章を読んで解放されるかは知ったことではない。そんなことがあったとすれば当人がそれに気づく準備ができていたというだけ。良く飽きもせず僕の文章読み続けられますなとは思うが、なんかあるのだろうな。知らんけど。

 

個人的にはこの観点に戻ってこられたのが凄く楽しい。

もっと言語化(表現)で遊べるという枠の取っ払い。

 

 

結論。自分がどうであるかはほとんどが当人で塗り絵しているものであって、それが嫌なら塗り替えることはいくらでもできる。思考の現実化より手っ取り早い。塗られているものは自分で違う色を重ねれば色合いが濃厚になる(デッサン初心者が宣う)。

 

まだまだ途上というか、一生完成しない。

 

願わくは、誰かにとって自分がどの位置に置かれているか分かるコンパスがあると良き。固有の位置だったらそれに見合うものを返したいし、そうでもない数換算だったら時間を使わないようにするし。

 

はい、今日も楽しき一日でござった。

 

 

おやすみなさい。

 

楽しき明日でありますように。