共同作業
なんだか寂しいというか、恋しいというか、侘しいというか、そんな気分。意識が途切れがちな土曜日には隙間に虚無が入り込んでくる。そのうち過ぎ去るから問題はないが、ここには活力がない。
水をお供にお風呂で本を読んでいるとやっと戻ってきた。文字を読まないと意識が起きてこなくなっている模様。仕事日は文字情報に囲まれているし、待ち時間でこっそり条文を読んでいるからすぐ覚醒する。
たぶん、文字を読んで意味を追うことは意識的に行われなくてはならないから、ずっと読んでいれば虚無が入り込む隙間が無い。この流れで言えば文章の方が意識的な運動ではありそう。読み書きがしんどいとされるのって、集中力というより意識的に持続的に認識をすることに馴れてないという仮説が起こる。
ほとんど集中力と同義と扱われていそう。集中状態には無意識のコントロール下でも起こりうるが、ここで言う意識は、無意識に完全に手綱を明け渡さないこと。動かされていると並列で動く。とか、見えているのではなく見る。人生劇場の日常を観劇者として過ごすのではなく演者になること。これがとても難しい。仕事日であれば、あ、いま途切れたなと移ろいをちょっと戻して繋ぎ直せるのだろうが。
これって、別に気を張ったり集中したりするような心の向き話ではないから、疲れるとかではない。難しいだけ。瞑想したことないから分からないが、意識で無意識の移ろいを観測するような状態を目指す手法なのではと想像している。自分のナカで何が動いているか、何が起こっているかをただ眺める。
人は1日に何万回も考えるのも、無意識に完全に明け渡した時に出てくる考えで、自発的な思考ではなく、「考えさせられている」もの。アイデアはリラックスした時に起こるが、リラックスは無意識の階層では行われない。意識が安らいだ上できちんと在らないと。
という感じで、隙間に入り込んだ虚無、いやむしろ何もしなければ虚無の方が長いのか、としての無意識から、悩みとかネガティブな思想や罪悪感などが出てくる。こう書くとパンドラの箱みたい。
あくまで感覚的なものでしかない。ただこの考えさせられている何万回の思考って建設的なものがほとんどない。これって答えがないという悩みではなくて、答えがないという状態を維持したいからそういう感じが無意識に渦巻いている。
もう少し掘り下げる前に本の話。「はじめアルゴリズム」という数学の漫画。2巻分無料だったのだが、数学のジャンルは美味しいのが多い。数式の記号を習っていない小学生が自分で記号を創って、世界を数式に変換するラクガキを数学者が見つけるという冒頭。「数学は「分ける」ことで宇宙を認識しようとしてきたけど、分かれる前は何だったのだろう」。
無意識と意識の関係にも近そう。数学のジャンルの本を読んでいると「数学世界」という概念が出てくる。「青の数学」という小説。凄い世界なのだろうなと当時は思ったが、いま想うと、これって意識上に構築された数式に変換された仮象の世界であって、まさに意識的な試み。学問としての数学も毎日読んでいるのだが、なかなか認識できなかったのは、この意味で世界を拡張するものだと分かっていなかったからだろうな。個々の数式ではなく概念を採り入れなないと。
「計算する身体」に、数式を見るとアレルギー反応が出る人が一定数存在するというのも、今日の話に繋がっていて興味深い。
もう1つ。最近美味しく読ませていただいた非売品の小説。これも誰かの意識の中に在る世界みたいな感じなのか(自己納得)。主人公は病んでいて病院のような療養施設(なんとなく宗教味がある)で治療を受けている。
強迫症。
きちんと電気のスイッチを切ったのか、ということを確証するために、部屋のイメージを繋げて点検する。僕も数年前まで起こりうべき悲観的な未来みたいな思考が充満していて、自分の中でいちいち点検していた。ヒーターの電源を切ってなくて布団が被っていて火事が起こって、みたいな。
境界みたいなところまでは行っていたかも。
このどれだけ考えても減らない不安感って、いま想えば、想像される未来・終わった過去の全てを今のものとして捉えていたから。もちろん、それぞれの方向に想うことは大事。特に未来への準備。楽観的に生きて未来で悪いことが起こってどーんと落ちるのも違うし。
問題は集約された全てのいまに感情を連動させること。無意識には時間がなく、いまどう対処するかとして働かないと読んだ。強迫症って、この無意識の情報の参照を汲み取る量が多くて感情がパンクしてしまうからなのかも。
ちゃんと電源切ったのか問題は僕の性質として受け入れて、今はむしろ逆用している。全部意識して、イメージではない今のシーンとして、電源落としたなはいはいって確認。不安感も進行形で減っている。自分の動きで誰かに迷惑がかかったり、傷付けたりしとしても、完璧にできる訳でもないし。
なんでまだ居るのだという不審感はあるが、不審は僕の運動を変化させない。
感情はセミオートで発生するものではあるが、完全な自動でもない。
無意識で種火が起こって意識が燃料をくべるから燃え上がる。
無意識と意識の関係に戻ってきて。
無意識に手綱を渡した時に考えさせられる思考がネガティブ寄りなのは、無意識の性質からなのだろうな。恒常性というか保続性。今まで存続できているのだから変化する必要がないというメカニズムの波が感じとして意識に伝播したときに、悲観的な感情として意識化される。
何かを選択するときの悩みも、より効用があるかどうかを考えているようでこれまでの自分をより変化させないのはどっちだという感じが起こっているのでは。
ライターを買う時、どの色を選ぼうとするのかを観測すると青とか黒を選びたい感じ。
あえてピンクを選んでやる。1つ無意識が更新される。
当然、無意識の機構ないと人は生きていかれないし大事なのだが、無意識自体には感情もないし、むしろ自分を守ってくれている。ネガティブな感じを無理に直そうとすると反発が起こるのもそういうことなのかも。
思考も、僕はいっぱい考えている人と読まれそうだが、アイデア的な思索を記述しているだけで、無意識から来る感じとしての思考は全然してない。この思考は100回もないと思う。日常的な選択の主導権も無意識に任せていないし、大局的な思考も、いや、宇宙全体は言い過ぎでも、歴史上の人類と比べてどうよ、と悲観としての虚無感はあまり出てこないようにしているし。
あぁ、なるほど。
祈りって意識的にしかできないよな。
宵顔さんもとい、色んな人が祈られるのが好ましそうだったのは、その時には自分が意識上で存在していると認識されるからなのか。別に祈ってなくてもずっと居るけど。
ある意味瞑想と同じ効果があって、理(?)に適っている。
自分の中の諸々の納得を記述してみただけの日記でした。
おやすみなさい。
良い夢を見られますように。