玄関

 

 

 

余剰な感情は収納していく。

 

 

夢に日記のタイトルが出てきたため倣ってみる。中身は夢には出てこなかった。これから作る。あんまりピンとこなかったが、よくよく見ると内と外の境界としての場なのか。では、本編へ。

 

 

仕事の休憩中、昨日と同じ席で外を眺めながら母親にLINEを送る。遠くの山に雪化粧が見える。方向で言えば京都ではなく兵庫だろうな。たぶん。LINEを送ったのは、ご時世関係のアレが今日だと言っていたから様子を伺うため。そうすると、すぐに着信が返っきた。開いた弁当を置き去りに少し話す。電話の方が早いからと言うが、僕の休憩時間はその分短くなる。我が母ながら僕に構われるのがとても嬉しそう。

 

構い構われがないと相手の存在を認証できないというのは難儀だなという発想が起こる。僕は構われるよりは構うことが好ましい。ただ、通話だと相手と時間を共有することで、同時に構ってもらうことになるし、返信を求めながら発信するのもそう。返信不要な一方的な構いが許容されるというのも普通はない。あってしまったのが変な縁。構われるのが苦手とか申し訳ないということではなく、別の理由で構われなくても良いという感覚がある。

 

無軌道な考えを脳内で照らすと、問いはいくらでもある。「人間に質量はあるのか」、「感情は全て自然発生的なのか」、「時間の体感度」など。

 

最後の問いだけ言語化しておく。あくまで僕の体感なのだが、「未来を待つ」という意識があることにより、その未来までの時間が長く感じられるようになる。これは良い意味ではなく、間延びするデメリット。カップラーメンの3分間は分かると思われる。生活の実践で言えば、仕事の終わりを待つという意識によって仕事時間が間延びする。そんなの退屈で義務だから当たり前じゃんとなるかもしれないが、この「待つ」という意識は、客観的な物ではなく、あえて自分で待っていると気付くと随分変わってくる。

 

その待ち時間で他にいくらでもできることがあるし、そうすることで時間が一様に流れることになるということ。体感は意識(認識)である程度コントロールされているという当たり前のことをメタ的に意識する。感情の体感もこことちょっと似ている。

 

飲み交わすことを待ちながら他のことをしていて良い。

 

 

仕事は何か失敗している気がするが、もっと失敗して失敗にまつわる感情をメタ認識したら良いとなっている。意識的に手抜きとか失敗はできない質だから内部がもっとやれーと騒いでいる。予防線を限界より前に設定し過ぎ。失敗にまつわる感情はだいたいが、それによって他者に怒られた歴史由来であり、本当の失敗だったのか、単なる虫の居所だったのかは不確知。

 

 

明日は祝日だから、弁当でも作って徒歩圏の公園で季節の移ろいを眺めようかという気分。ただ、リフレッシュのために自然に触れるという目的意識は薄れてしまった。行くならただ行きたいから行くで良い。いつか僕が生まれ育った森に誰かを連れて行きたい世界線もあるが、別に誰も付きあってくれなくて良いし。

 

そういえば、物事に対する反応が以前とは変わってきていて、自分ってはたしてこんな奴だったっけという感じ。感情もそうだし、思考や情報の扱いとか、もっと言えば疲労感みたいな体感も含め。10代の頃、家でひたすら眠かった歴史しかない。あと、具体的な誰かと過ごしている時もかなり微睡んでいた。寝ても寝ても眠いし、頭も全然働かないし、デートしようって叱られる。ここでいう眠りはいかがわしい意味の寝るではなく、ただの生理的な睡眠。

 

この今の快活さはなんぞや。

 

ただの自分に回帰している感があるのだが、もともとの自分が厳密に色んなことを考えたり実践したりしていた訳でもない。まぁこれって、都度、その周りの世界に合わせていただけであって本来の自分でもなかったのかもという疑義。もっと早く本をなまものとして読めるようになって居れば良かった。本の世界にはエキセントリックでファンタスティックな変人だらけだし、倣うならばこっち。

 

ずっと、本気で生きない方が良いと思っていた。

まだ本気出してないだけみたいな話だが、本気出したところで成功するとかではなく、もっと素朴な世界観として。でも、もう制限しなくて良いとする。もっと笑おう。

 

 

そろそろタイトル回収。

 

僕の最初の孤独感って、人に感じたのではなく、対象は「雨」だった。カーテンの隙間から見る土砂降りの雨が、庭のカタチを変えていくシーン。幼稚園時だと思うのだが、厳密な時期は分からない。どうしようもない不安感もセットで、どういう感じだったのかがずっと気になっていた。これは自分が1人であるという孤独というよりも、世界が移ろいと自分の移ろいが同期していないという不一致に対する不安で、1人であることが当たり前という本質にあったのではという解釈。

 

過去の解釈なんて自分が変わればいくらでも変わる。

 

自己と他者(世界)の境界領域をどう扱うかという意味で、この場には神秘的な意味もある。建築物がロジック的な意味合いがあるというのが「絵の言葉」にあった。教会は外部から隔たれた神の世界であって、ステンドグラスがそれを演出する膜的な効果があるが、日本の神社は不文の結界となっているとか。

 

部屋の前にはこの場がある訳で、この建物の構造は精神構造にも組み込まれている。順序としては逆で、人の精神構造を現実化したのが建築物ということ。

 

これは人との関わりでも言えることで、ちゃんとここで靴を脱いで接するのか、土足で踏み込むのか、もしくは自分の部屋に無理やり引き込むかで全然違う。

 

僕は割と土足で踏み込まれる質で、止まり木みたいだわと認識されていたが、そこに付き合う気は毛頭なくなった。きちんと靴を揃えて脱いで僕の部屋に入ってくれる人の筆頭が一方的に構える人。

 

ここで言う靴を脱ぐのは隠喩で、精神世界で言うところの相手の精神世界を他者でありながら尊重すること。別ものだが、許容するという世界。

 

この部屋的精神構造を拡げると国とか社会みたいなところに至る。社会観を共通とすることが同じ部屋に入っていることで、靴を脱がなくても良くなる認証。僕はこういうの駄目なんだよな。もちろん外付けの社会観は同じく社会を生きているから分かるし合わせられるが、それで仲間意識持たれても困る。

 

僕が気になるのは共通項より個体差であって、個体差に構う時には社会的な経験則は役に立たないし、自分の靴は脱いでお邪魔しないといけない。これは多様性として人をいっしょくたに捉えて自分の部屋に引き込むこととは全く違う。

 

構うは相手の世界に合わせること。

 

 

境界線といえば、「ノルウェイの森」の直子が入ったサナトリウム(で良いのか)も、一種の自己と他者の寓話。また京都。宵顔さんの存在がちらほらするのはともかく。

 

普通の人は自分の歪みを意識されないが、ここでは人にはそれぞれ歪みがあるということが前提。ノルウェイの森では現実にありそうな場所としているが、これが昇華されたのが、「世界の終わり」の世界なのかも。

 

だいたいの人は自分の歪みに気付かずに済むが、誰かに対して歪みを感じることがすなわち自分の歪みだと思われる。僕の歪みは1人にならないと分からなかった。

 

ここからはどうにでもなる。

 

 

はい。

 

おやすみなさい。

 

よい歪みを。