沈殿

 

 

 

湿度が高くて微かにマスク越しの呼吸が苦しい。この気温だと上着要らないのだが、このまま暖かくなっていく訳はないだろうな。まぁ、なんでも良いが。それとは別にふわふわして意識的に生きられていないような感じ。移ろいに振り落とされそうになる。明日はちょっと自省録を読んで落ち着くか。

 

 

仕事は、席替えになって快適。雑談が聞こえてこない。この人はここが至らない、今度の人は考え方がおかしい、みたいなことを話している風だが、その水準で見たら人類全員何処かは至らないから、時間つぶしにしかならない(たぶんこの効用の為に話しているのだろうが)。黙々と仕事しつつ、合間時間に読みつつ。

 

お昼に缶コーヒーでなくてローソンでカップのカフェオレを買ったら、砂糖が使われている。珍しい。果糖ブドウ糖液糖か人工甘味料ばかりなのに。甘ったるさ良かった。ベンチに缶チューハイと弁当の空が放置されていて、げんなり。奉仕精神はないからわざわざ捨てることはないが。

 

夜ご飯はアスパラが安かったため、人参と新玉ねぎと肩肉でマヨネーズ炒め。弱火で炒めたらアヒージョみたいになった。美味しいのだが、胃がもたれ気味。昨日の桜餅がきいている(胃弱)。

 

 

さておき。

 

なにやら色々考えているのだが、あんまり書く気が起こらないような感じ。教養がないというか、素地がないから地に足が着いた感じで書けないのだよな。論文ではないからてきとーに書けば良いのだが、何か物足りなくなってきている。こういう受け入れられにくそうな感覚を滲ませるのが創作なのかな。

 

とりあえず何かてきとーに書いていくか。

 

僕が当たり前を取り去っていきたいのは、もっと効率的になるだろうみたいな建設的な志向ではなく、当たり前というブラックボックスがどこから来ているのか、なんでこんなに縛ってくるのかみたいな解明でしかない。なんなら自由とか効率的だって一種の当たり前であって、ブラックボックスと思う。

 

全部のブラックボックスが解明されてしまえば、ばらばらになってしまいそうだから、ある程度の約束事は必須ではある。これが「絵の言葉」で言うところのシンボルなのだろうなって。歌舞伎では太鼓で天気を表現するとか、約束事が馴染んでいることによって文脈が理解できるようになるとか。

 

このシンボルが、外の約束事でしかないという共通項であれば問題ないのだが、シンボルと自己は同化しがち。自己の氏名とか属性が社会的なアイデンティティになるとか分かるのだが、それで良いのかねと思ったりする。

 

僕の名前は正確に呼ばれることはあまりないのだが、別になんとも思わない。むしろ正確に読んでくれた人にへーとなるくらいで、正確に呼称されなくても問題ない。もちろん、呼ぶときは正確さに気を付けるが。自分がどうでも良いことが相手にとってどうでも良くないことがあるのは当たり前で、逆も然り。

 

なんだかどうしても表層をばしゃばしゃしているような文章になる。

 

自他の不均衡の当たり前がずれてないか。

言葉が伝わらないと想う人が相手の言葉を汲み取ろうとしたことがあるのかとか。自分の外だから大変。

 

やれやれ。

 

文章に書けることなぞ、思考の氷山の一角。

非言語領域が拡がっている。もちろん、これは調子が良いということ。

 

 

好きな人のブログを読み返していて、言葉について想う。

 

言葉を写真みたいにある瞬間の像を切り取ったみたいな静的に扱うこと。言語は規定することだという記事の趣旨からすると、たしかに言葉って自分の精神の視界を視点という言葉に絞って額縁に飾るというか、二次元的な表現にする。

 

こういう二次元的な文章は多い。僕も仕事で案件を記録するときは出来事を二次元にするし、要は、終わったこととして書かれるもの。事実とか感情の言葉ってこれになる。約束事もそうか。言葉を規定するのではなく、言葉に規定されている文体。

 

 

そうして、当人の文章は言葉をきちんと規定しているために全然静的でなくて美味しいという。動的な文体とはなんぞやというと、言葉はあくまで言葉でしかなくて存在そのものではないということに自覚的だから約束事にまみれていない。

 

言葉にならない感じに言葉を当てるだけという言葉との距離がある。

 

僕も言葉自体に興味はあるが、ウィトゲンシュタインさんまでは突き詰められないなぁ。

 

文字数少ないけれど、とても元気です。

 

はい、おしまい。

 

元気でありますように。