起承てんてん

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1日でこの拡がる絨毯。贈り物だがおそらく苦情はないと思われる。早歩きで止まる時間なく通り過ぎているため、素早くカメラのアプリを起動し撮る。チャンスは1度しかない。あんまり活用しないアプリだが、視覚の観念的(時間的)切り取りも、表しとして結構好きなのかも。下手かどうかは知らない。文章と同じく。

 

 

 

さておき。

 

出発時間がどんどんとギリギリになっているにしては仕事場への到着は問題ない。これは着いてから5分程の待機時間を家に居る時間に配分しているということで、時間自体が増えた訳ではない。ただ、体感的に長く感じる。

 

起き抜けに2分間だけ本を探す。「海辺のカフカ」が終わったから、次の村上春樹本。「色彩を持たない、(省略)」。探すのは2分だけで、あとは通常の生活時間に戻ろうとしつつ、どうせ見つかるのだろうなと想っていた。押し入れにかくれんぼしていたが僕のレーダーの感度は向上し続けている。すんなり捕まえた。

 

こういった生活時間の中に生活以外のことができる余白があるのが生活の楽しみ方らしい。

 

仕事はきちんとこなしているし、人と通話するのも気分的声の操作性を検証するという意味で楽しんでいる。ただ、なんというか、こなれる訳にもいかず、ここを居場所としてはいけない気分がある。皆さん良い人とは思うし、あと一年は最低限居てくれるのだなとこの前の呑み会で上司に言われたが、1年後の僕がここに居る気がしない。

 

たぶん時間を費やすことだけが対価になる場にそぐわなくなっている。

かと言って何で糧を得るのだという感じだが、なんとでもなりそう。

 

ほんとにそんな気がしている不思議。

 

 

世界観という言葉は、カントさんが初めて使ったらしい。

by「共通感覚論」

 

素朴に世界観の中に存在する自分を捉えてみたとき、随分的外れだった。

 

多崎つくるっぽいと言われた。たしかに、僕は中庸だし、真面目に過ごしているように見受けられるはず。破綻もないような感じだし。まぁ評してくれた人は別の筋の破綻がなさそうなのに変にズレている部分を捉えていると思われるためちょっと違うが。

 

「共通感覚論」で、分裂症(昔の本だから呼称が時代遅れ)の人の文章が引用されている。曰く、「人が当たり前としている感じ」が分からないから、都度考えてしまって息苦しい(生き苦しい)とのこと。たしかに分からなくもないが、僕の場合は、自分が自動操縦で馴染んでいるこの当たり前の感じになんとも違和感があった。自分で動いている気がしない感覚だったと分かってきたのがつい最近。

 

僕の衝動は現実とされている人生劇場でもっと動くことにあるから、誰かとの関係がどうであるとか、自分がより生きやすくでもなさげ。

 

あぁ自己観の話。

 

世界を捉える方法に正しさがあるとするなら、もっとも正確なのは主観を交えない俯瞰。神の視点みたいな話だが、そういうこと。正しい世界は人間の中にはあり得ない。あるのは主観だけ。

 

という話だけであれば普通だが、世界観の認識は五感の認識(厳密には知覚情報を集約した脳の解釈)に依るというところからすると、自分の知覚を通した自分という存在自体が誰かの主観の集積になる。

 

というのも、知覚上、唯一俯瞰できない存在が自己という物体だから。

自分の顔は自分の視覚の範疇外だし、自分で自分を触っても触覚は正常に稼働しないし、自分の声の話はこの前書いた。味なんてもってのほか。誰かの耳は味わえるとしても自分の耳は口に含めない(なにやら官能的)。

 

という意味で、世界観における自己は、世界を決定している存在のようでありながらとても制限的な存在でしかない。自分は自分で確立しているという確信の証拠は事実ではなく間接的な証拠しかない。自分で見た訳でもないし、聞けるわけでもない。

 

自分を決めようとしたところで伝聞みたいなことにしかならないということ。

 

自分をどう決めたところで世界は回るし、動かそうとすればいくらでも動ける。

この動かそうとする原動力は意志だというのが常識だが、意志で動くとこうとするときの原動力は意志そのものではなく、結果の先取りみたいな感じ。これをしたらこういう未来がありますよと、自分に人参を垂らして鞭を打つイメージ。

 

それで動ける人は良いのだろうが、僕はそこまで自分を物扱いできない。

言葉で名前を付けなきゃ認識できないってそういうこと。

 

そういえば、ごまかしごまかしでなんとかなっているが、遠い未來の予定がとても苦手。これを社会性の欠如だとしていたが、今の解釈だと趣が変わる。この予定の観念が人間の自然ではないから駄目だ。本来「いま」しか認識できないのに、そんなに遠いことを約束できないし、約束する必要がない。

 

まぁ、今の常識では時間は一定にカウントされていて、その頃にも自分は自分だしという感じだから、合わせることはできる。

 

なんだっけ。

 

この世界観、とても楽しい。

この楽しさはこの器でしか味わえない。

 

世界観は解釈が変わるだけで彩が別次元になるという人生劇場。

特に物語を必要としないのは、この劇場そのものを物語として読んでいるからだと思われる。この世界観の目まぐるしさに着いて来られる人なんて現れないとしていたが、物語には転調がセットだし。

 

そういえば、フェーズが変わったところで、1段だけ思考の深みが上がった気がする。

インプットだけを世界とせず、問題設定という意味でのアウトプット。この話はできそうもない。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い自分を。