小躍り

 

 

22:15から。

 

 

昨日の日記、大丈夫だったのかな。

別に本音だから書き側としてはどうでも良いのだが、読み側として不快感があったのでは。

 

いや、読み側のことを考えると歪むのか。

もちろん言葉の機能は伝達だから、誰か読んでいる人がいるという想定は大事だけど、あまり具体的にしてはいけないというか。誰かは見ているという視点の想定って神様と近そう。ハイキュー!!の北さんみたいな感じ。ちゃんとするのは自分の為。

 

 

満月さんは昨日2時に帰ってきたらしい。職場の人と話し込んでいたとか。僕の物ではないので好きにしたら良いし、きっとスッキリしたはず。モンブランを食べて寝ていた。なんとなく酒臭くて添い寝がしんどいかなと思ってソファーに移動して寝たのだが、朝起きてから、寂しかったと言われた。

 

職場の同僚さんに、硯は可愛いと評された模様。犬みたいだって。1周り下の人からの評価としては不甲斐ない。別にどうでも良いけれど、野生を忘れていないからせめて「狼」くらいにして欲しいとは思う。野に帰ると生き生きするし。

 

ほんとどうでも良かったのだが、子供っぽさが滲みでているという意味では少し考えることがある。

 

僕は確かに無知で言えば結構子供っぽいと自覚しているのだが、どんな人でも子供の部分が残っているとしている。妙齢の女性には少女が残っているし、男性は一生少年部分が残っているだろうし。子供は大人より劣っているとも思っていないし、子供が成熟して大人になるという矢印はちょっと違うようなという感じ。

 

大人は経年で社会的に成年になったという記号というか呼称でしかなく、何かルールに適った所作ができるようになるのは、それを破るリスクが増えるからという理由だけという仮設。

 

子供は無垢だというのは大人の思い込みで、子供の方が旺盛に世界を採り入れているし、幼稚なのは社会に無知なだけだし、体も一定じゃないから世界観の視点も安定しないだけ。

 

僕が想う大人が完璧を設定しているだけなのかもしれない。

変な話、しようとすることと実際に為すことにラグがなくなって自在になることが人間の成熟だとしている。こうなったら目的とか動機とか意志とかの心と体の間は必要なくなる。しようとしたことは、それについての目的とか動機とか意志とかを設定する前に行動しているから、概念として要らなくならないかという説。

 

端から見ていると意味が分からない人になるから、言語化は大事とは思うが、言語化することと、言語によって動きが設定されていると認識していることは全然違う。

 

この子供と大人の話は表現の自由の話と繋がっているような気がする。

 

本日普通に朝起きて、満月さんの出勤のタイミングで職場近くに降ろしてもらい、自転車を回収して漕いでいたときに表現の自由について考えていた。自転車でも飲酒運転になるから昨日は回収できなかったもんで。

 

表現の自由って色々言われているけど、憲法学の領域だと知っている大人はどれくらい居るだろう。憲法学って或る国家が遵守すべきルールであって、個人の自由というより、国家が社会的に国民に許容すべき範囲の話。国民個人側からすればどれだけ表現できるかという可能性になるけれど、個人が表現できる媒体って中間のSNSを管理している企業とか出版社になるから、こういう団体が表現を規制して不自由だという気分になっている。

 

表現の自由を赦す根拠って、最新憲法学だとどうなっているのだろう。僕が読んでいた時には、自己実現とか自己統治とか、思想の自由市場とかがあったけども、どれもあんまりぴんと来なかった。まぁ主体が個人ではなく国家だとすればどれも分からなくはない。国家を存続させるためには、そういう意義を設定した方が合理的というお話。

 

僕が特に流通される表現物に年齢制限を付ける必要がないと思っているのは、色んな表現がある環境の方が人間の可能性が拡がるから。表現の価値って割と金銭的な市場価値で決まっているけども、実際は評価できるような舞台に上がっていること自体が表現の価値であって、存在していることで価値になっていると思う。

 

たしかに、個人の世界で言えば、ある表現が苦手、ひいてはけしからんと想う人がその表現の領域自体を撲滅したいと思うキモチも分かるだが、これを言い出したらそうやって撲滅したいという表現をする人の言葉が気持ち悪いから辞めて欲しいと言われたら、その人は少なくとも表現の自由を盾にはできなくなる。企業の自粛ルールを盾にすることはできるとは思うが、そんなのその企業のプラットフォームで表現する領域だけで適用されるルールだよねと言われたらどうなるのか。

 

垂れ流れてくる情報が圧倒的になってきている昨今というか、もともとというか、どんな情報が流れて来たとしても、情報を採り入れるかどうかはその人が生きている環境によりけり。天動説が当たり前だと思われている環境で地動説は採り入れられないし、異性愛が普通の環境の中で同性愛の情報に違和感があるのが当たり前。

 

ちなみに、異性愛の概念って文学理論の本によると同性愛の概念が出て来た後に名前が付いたらしい。当たり前過ぎると名前が付かない。

 

そう考えると、情報の入り口をどうにかするより、子供の影響を考えるのであれば、きちんと子供の立場に立ってサボらずに環境を作るのが大人の役割であって、不要な情報を不要だと判断できるようにしてあげるしかない。

 

言葉を規制するみたいなことは、全然意味が無いとまでは言わないけども、タブーとしていることに敏感なのが子供の要素であって、ハリボテでしかないような気がしないでもない。

 

多様性の世界を受け入れるのであれば、別に差別を想起させる言葉も復権して良い気がする。差別が言葉によって生まれているという立場だったら言葉狩りしていくしかないけど、差別は言葉の前にあるから、言語化された後の出口をどれだけ規制しても根っこは拭えないと思われる。

 

僕が多様性の世界をきな臭いと思っているのはこういうところ。

ほんとうに誰もが個人であることを尊重する社会だったら、あえて多様性と言語化する必要はないし、どれだけ掬おうとしてもこの多様性の「多」から漏れる人は絶対出てくる訳で、結局今までとそんなに変わっていないというか、同じ世界線の延長線の話だよなと。

 

まぁ、王道の人生上のレールが設定されなくなったのは良いと思う。

社会に乗るためには王道に則らないと難しい側面があるけれど、乗っていなくても非国民だと排斥されることは少なくなった。一部の世界だと早く結婚するのが王道だという環境もありそうだが、日本国憲法には環境移動の自由があるから、嫌なら移動すれば良い。

 

こんな感じで、毎日楽しく生きている。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。