いちなるもの

 

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弁当は作らなかったが公園には行った。ついでに狩猟も。

 

読書が狩りであるという考え方がいいのは、本を読んだ(消費した)のではなく理解を問題としているところ。本が意味する獲物を捕まえられるかどうかは、当人に係っている。これで言うと、グーグル先生に聞くことはジャンクフードみたいなものなのかも。バランスが大事。ついでに、いまの自分にリンクした本を見つけることも狩りっぽい。

 

狩りの概念って、生活の維持とか消費物の獲得が中核と思うが、活動範囲の拡大も含まれているのだろうな。

 

 

まずは順を追って。

 

朝ごはんは味噌汁の気分だったから、若布とカピカピ一歩手前のエリンギで作った。お弁当作るならおにぎりだろうと買っておいた海苔と梅干、らっきょうの甘酢漬けに納豆とご飯に合うアラカルトと共に食す。

 

昼過ぎに出発。古書の採取ポイントの1つである仕事場の駅近くのブックオフが閉店してしまって残念極まりない。ただ、徒歩6分ほどの老舗の古書店は健在で、公園に向かう前にまずは狩り。個人的にはそろそろ村上さんの「アンダーグラウンド」が出てくるかなと思ったのだが、まだお預けらしい。他にもたくさん気になる専門書があったのだが、今回はこの本、「性愛と資本主義」。

 

内容は後述。別に「性愛」という言葉に惹かれたのではない。目を引いたのは、あ、好きな社会学者さんが書いているやん、というところ。ちくまの新書だったかの「社会学入門」とか天皇制についての本で読んで面白かった人。下の名前がいつかの時系列の同級生と同じなのが名前を覚えるのが苦手なのに残っていた理由。

 

ぱらぱら冒頭を読んだら、まず「絶対的孤独とは」から始まり、これは買うしかない。

 

 

公園は、人が多い。梅が咲いており一頻り鑑賞し、ススキも綺麗。整った自然公園って人間にとって都合の良い自然という理想の現実化なのかなと想う。悪くないが、もの足りなくはある。人が居ないところを求めて辿り着いたのが画像のベンチ。少し読もうと思ったのだが、雪がはらはらと降り出すものだから、帰ってからに読むことにする。今年は雪の日が多い。

 

駅ナカの本屋で少し暖を取り(やはりアンダーグラウンドはなかった)、厳密な意味での食材を調達。かつ丼の気分。あと、数日前に「ひじき」という単語を見たときから食べたくなっていて、スナップエンドウ、薄揚げ、乾燥椎茸を合わせる。メインは鶏の肩肉と小松菜。帰宅してコートだけ脱いで手を洗ってお湯を沸かし、ひじきとシイタケをお湯で戻す。着替えたのちに冷蔵庫の人参を千切りにするなどして作った煮物とかつ丼を食べた。

 

3時間ほど本を読んで、通常の生活に戻る。メインの炒め物は塩・胡椒と醤油で味付けをして、なんとなく梅入りゆかりを追加。酸味がうまいことマッチングしている。

 

 

さておき。

 

 

ここのところ頭痛を感じることがちょくちょくある。何かの不調のサインなのかと想いながらよく考えている時に起こっているから、単なる筋肉痛みたいなものとしておきたいところ。どうしようもないことを循環的に考えているのではなく、旧来の自分の世界からちょっと離れたところにある認識を地続きにするために思考で工事しているみたいな感覚。

 

とりあえず、「性愛と資本主義」は1時間半くらいでざっくり1周し、お風呂読書でじっくり読んでいる。1周した後に頭痛があったからそういうことだろう、とする。

 

まだあまり咀嚼できていないことを前置き。絶対的な孤独とは、関係していた他者が喪失するという意味の相対的孤独ではない。相対的孤独には、「1人で生きる」といった、他人を前提とした孤独も含まれる。

 

絶対的孤独というと高尚な感じになるが、そんなことはなくもっと素朴な身体感覚のこと。自分の身体が、経験する可能性的な宇宙が一なるものであるという、当たり前の話。自分の身体を通した人生が自分しかないということ。こういう意味の孤独がないと人の実存はない。社会学の言い回しはややこしい。難しくしているのではなく、そういう風にしか言語化できないことを対象とした学問なのだろうな。

 

こういう感覚はずっとあった。なんで皆一人でないと想えるのだろうみたいな。恋する者こそ孤独に敏感になるというも面白い。人とはアンビバレンスな存在としてしか在られない。孤独の解消としての性愛がむしろ孤独を剥き出しにするとか。愛撫。触ることは触られることで、愛の行為だとしても、それで孤独が解消する訳ではないとのこと。

 

この話、個人的にも面白い。僕はまぐあい自体より前戯の方が好きだったし、手を繋いだりハグしたりという触れる行為が好きだった。まぐあいによって他者と繋がっているということが感じられないというのは、もともと相対的孤独を解消したところで絶対的孤独の解消はないという感覚があったのかも。

 

本を読むことが自己の発見になるというのは、こういうとき。こんな情報は普通に生きているだけでは得られないもの。ある意味、人に飢えている感はあるのだろうが、絶対的な孤独を認識している人と触り合わないとよろしくないだろうな。相対的孤独だと同化されてしまう。孤独を踏まえて寄り添えるかどうか。

 

これは1つの身体感覚の絶対性の真理として良い。ただ、この孤独観は西欧からの輸入なのではという感じもある。引用されている文章も外国人の翻訳本だし、そもそもパーソナリティとかアイデンティティの概念も輸入品なので。

 

「絵の言葉」で西欧はいちいち絵画(像)にロジックを用いるが日本人にはそういう感覚がないという話がある。日本は島国で他者という概念があまりなく、背景が不文律で感覚として在るとしているから、いちいち論理を用いない。日本のもともとの人の感覚って族とか類っぽい。統合したルールがある訳ではなく、空気で判断する感じ。

 

言葉で伝えるという技術の構造がなく、なんとなく伝播するくらい。

察する能力は高そうだが、そうでもなく、単に、予防線が上手いだけだと。

 

妥協はしないが努力をしないというフレーズがあった。

個人的には好みだが、あんまり分からないだろうな。日本語って、おそらく解釈として開かれているから、自分がある言葉にどんな意味を当てているかが自由。

 

書き手としては、努力は広く何かするということで、妥協しないは意志的要素があるとのこと。有用か意志かで分けているという解釈なのだが、そもそも運動することに理由が必要なのでしょうかと想う。

 

まぁでも、外に対しては言語で表明するしかないというジレンマもあるのか。

僕は言葉が通じなさそうな人にはてきとーに言語化していると思われる。現実世界においては言語化の前に現実が在るから、どう言語化しても相手から見える自分の印象は運動が変化しない限り変わらない。どの言葉を当てるかなぞ、人はそんなに読めない。

 

 

絶対孤独と愛撫の観念の拡張。人の身体感覚って、電話とインターネットというメディアによって拡張されている訳で、現実的に物理で愛撫しなくても人には触れられるようになったような気がする現代。

 

僕を読んでいる人は僕の生身より触れているという話はまぁ良いとして、人の実存が生身に留まっているかという問題。

 

触れるか触れないかの1例。インターネット世界で知り合った人に会いに行って、カラオケしてラブホで寛いで(非接触)、最後に唇同士でだけ触れて別れた。この関係の方が現実ぽく感じる。ちょっと踏み込めばもっと先があったかもしれないが、何か終わってしまった。

 

自分に寛いでいる人の中で寛ぐのが好きだ。

 

一応普通の社会人だし、現実で人に接して居るが、それぞれの人の中にある現実って何をもって現実なのだろうなと思う。物理空間も科学的に解明し切れてないし、人間そのものも然り。

 

死と他者の共通項は、経験・体感できないということ。

だからこそ、疎通で繋がったものとできるのだが、省略。

 

ノルウェイの森とかの村上さんの作品群が、社会学的に考察されうるのは、世界観が独立しうる社会が形成されているからなのかな。自己と他者の関わりが具体的な現実とややズレている。

 

相手のズレを許容するのがコミュニケーションなはず。

輸入された感覚に汚染されると許容できなくなる。

 

絶対的な孤独の世界にある暖。

迷惑は嫌だな。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。