移動の痛み

 

 

海辺のカフカ」では「入口の石」がひっくり返されるシーン。読んで、自分が随分とアイドリング状態だったことが意識化される。同じ場所に留まることに飽きはないが、動く方が人生っぽい。ナカタさんの自己が空っぽであることに対する恐怖も分かりみだが、空っぽではないなという感じもある。

 

少なくとも自分の中に本はある。

凄くどうでも良い話だが、記憶とされる過去のシーンが主観ではなく、空間を俯瞰しているような感じで再現される人ってどれくらい居るのだろう。見ているシーンが見られているシーンと多重になる。自分のその時の顔(表情)だけは見られないという主観の欠陥。

 

村上さんの原初の観念の中に、肉体への抵抗というのがありそう。たしか現実の当人も走っていたような。肉体という器は思い通りにいかない檻みたいな観念。ただ、僕の器はそこまで任意で動かないことはない。1回手綱を取るのを辞めた時期に色々あったが、あれはたしかに嫌だったな。酔っぱらってもしないようなことをしていて、抗うことをやめていた。

 

 

さておき。

 

毎年のことながら好きな花が咲いていた。赤と白とピンクとか、同じ木から色んな色が咲く。もう少ししたら、何かの幼虫が葉っぱを食べて、農薬が撒かれる。品種改良なのかもともとそういう花なのかは知らない。

 

 

ミスチルの「HANABI」が流れている。

 

 

昨日はテンションが上がってしまった。そういえば、楽しめる人と語らうのは楽しいのだった。言葉を待ってくれる人は口下手としては心地良い。夜更かしをしてしまったのだが、特に不良はなかった。コンビニでパフェとかハニーソイラテとかウェルチとカルピスのカクテルとか、甘味をいつもより補充したくらい。

 

好意は甘味と似ている。

 

舞台装置論で言えば、劇場のシーンが転調する。

時空のズレは所与だから仕方ない。誰かの中の過去の存在への希求。

 

 

お風呂読書に書庫から出張ってきた講談社現代選書の「共通感覚論」を追加した。美学の本でも出てきていて、これはいま読まれるべきだなと。この共通感覚の観念は主観的に共感できるとか、納得できるとかではなく、もっと前にあるアプリオリの他者性のインストール。ちょっと貨幣への当たり前とも近い。

 

冒頭にいくつかの引用がある。カントさんも居たし、離人症の人の「音楽は聞こえてくるけれど、そこに音以上の何かが想起されることはないのです」みたいなフレーズ。個人的にしっくり来たのがマルクスで、五感の知覚が人類史の集積であるという趣旨の言葉。そう、世界観の最初は物理学上の現実的な有体物の感覚ではなく、歴史が積み重ねてきた世界はこういうものだという感覚であって、主観の集積でしかない。

 

でしかないとか言いながら、ほとんどはここの感覚を受動的に客観としているから、世界の全てと言っても良い。あらゆる感覚的なものは自分だけの専有ではないというのが共通感覚論。だからこそ、感覚は鍛えられる。美的感覚がそういうものだというカントさんの言も分かってきた。共通感覚はあくまで可能的な意味での他者と共有されるべきというインストールされたもの。

 

知覚はとても恣意的なものでしかない。

 

ここまで自己の基礎を思考でぶっ壊しても自分は欠けてないという強度があるこの器、とても変態。変態の話は後にしよう。

 

 

哲学少女が、僕の存在のことを「縁側」と評してくれた。

 

そういえば、と、自分史を振り返る。

 

僕は別に誰かを安心させるような外的要素を持ち合わせては居ないはずなのだが、割と人に安心されることが多かった。お金も持っておらんし、相手を守れるような腕力もないのだが、僕の存在に慰撫される人が少なからず。

 

これを社会生活で発揮すると滅茶苦茶つけ入られて、大変なことになった。

1例で言うと、金欠時代に関わっていたリーダー的な人が旅行に行くと提案して、いや、僕はお金ないから行けないですって言ったのだが、貸すから来いと無理やり行かされる。どこに行っても楽しめるから良いとしても、何故か意志で選んでいない貸しが残る。

 

断捨離すべき人間関係の筆頭だった人。相対的にしか人を捉えられない。

まぁ結婚したらしいし、幸せ、には多分なれないだろうなって想わなくもない。

 

自分の性質を「止まり木」だと評していた。

皆が啄んで去っていく感じ。

 

ここから、自分が空っぽであるという感じ(ただの心地良い部屋である)という想念が生まれたのが、最初にノルウェイの森を読んだときの頃。

 

割と都合良く使おうとすればできるから、人々に翻弄されてきた。

 

その辺りに出逢ったのが、もっとも長く生活した恋人さん。ただこの人も僕の存在を逃げ道にしてきたところはある。僕はこの人を自分の半身なのではないかと想いつつ、相対的なリーダーとの関係も並行していて、なかなかこんがらがっていた。

 

で、浮気されて(させてしまって)、精神的にぼろぼろになった数年。

当時、自分が欠けたとしていた。それが最近まで継続。

 

でも、今となると、僕は何にも欠けてなかった。

人は舞台装置として、自分を変更するものだが、変更の前後で僕は変わって無かった。

 

たぶん、この動じなさが誰かにとっての陽だまりだったのだろうなという感。

 

海辺のカフカで恋とは半身を求めることだから寂しいんだっていう感覚も、無くなってしまった。足りない部分を求めるのではなく、単に相手の存在と関わりたくなるのが定義。

 

変態性の話も書こうと思ったが、割と普通のことなのであえて言語化するのもなぁとおもわなくもない。人間は観念に欲情できる存在であって、普通に変態。そもそも、子孫を残すという所作を遊びにできるのだから、変態の所業。

 

ここまで。

 

動きって、運動としての楽しさと、存在が移動するという意味の二重性がある。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。