発揮

 

 

そろそろ履き潰し気味だった革靴に代えて安めで歩きやすいビジネスシューズを楽天でポチった一昨日。昨日は受け取れず、本日は半分だけ期待して午前中に指定した。午前中が9時から始まる3時間だとして、半分までしか家に居ないから。しかし、今週の勤務時間ではここしか受け取るチャンスがない。

 

雨が降っているのに出発を後らせるのはちょっと危険だが、いつもより5分ほど待つことにする。来ない。仕方ないかと出発。建物の外に出て歩きだそうとすると、それらしき車がやってきて、業者の人がトランクを開けると荷物がたくさん。

 

なんだかんだ受け取れた。1分でも我慢できなかったら無い世界線を想う。人ってかなり微妙な時空を移動しながら生きているのだなと。今日受け取れなかったら近所のスーパーのロッカーをしていするつもりだった。分岐としては最上の世界線を引き当てたとも言える。

 

 

仕事は1人に2時間くらいかかりきりになり、気付いたらあと5分もなかった。途中でも今が何時何分か分からなくなる。そういえば、期末の繁忙期だった。

 

雨は帰る頃には止んでいて、生命力が勝ったのか、桜の花びらは全然散っていなかった。

森の奥の誰も居ない山桜を眺めに行きたい気分。

 

夜ご飯は鯖缶をメインに据える。オリーブオイルで椎茸、人参、もやし、長ネギを炒めて水とコンソメかつおだしとチューブ生姜を投入。なんとなく煮て、水を捨てた水煮缶の鯖を加えて水分をある程度飛ばしたもの。美味しい。

 

 

さておき。

 

海辺のカフカ」のカーネルサンダースが、チェーホフの拳銃について語る。必然性とはロジックでもモラルでもない機能の集積だ。必然なものは存在するし、必然でないものは存在しない。

 

世界が主観的であるということをずっと考えていて、それに一致するようにスピリチュアル系から脳科学から哲学から何から何まで寄ってくる。これは僕でない誰かにも言えることで、僕が必然でない世界に居座るのはよろしくないではないかと思っていたところにこのフレーズはなかなかピンポイントだった。

 

 

別に寂しくはないし、誰かさん風に言えば「1人で居ることに幸福を感じられる性筒がある」とも言える。ただ、僕はおそらく1人でなくても幸福を感じられる性質もある。誰かと睦言を交わすとか、触り合うとかも楽しめるし、ただどこにも行かない話とか、なんなら無言でも良かろう。

 

ついでに、優しさ=自分を大切にして満たした余剰を他人に与えるということであれば、僕は優しいのではないかという評価をいただいた。たしかに、ここ自体が僕のお裾分けだから、そういう意味では優しい奴なのかもしれない。

 

こんなところで空気を読まないことを言うようだが、僕は別に読者を特に求めていないらしい。よく読んでくれているらしい人の名前が変わったなということくらいは把握していますが。

 

 

今まで通り過ぎて(通り過ぎられて)きた人達も僕にとっては必然だったということ。

カーネルサンダースの言う「機能」は効用とか経験ではなく、もっと中立的な舞台装置という意味。人は舞台装置だと言うと優しくないニュアンスになるが、舞台装置は舞台(人格)を成立させるために不可欠のもの。時空が近いときにだけ優しく接して通り過ぎた後に無い物にしてしまうことと、自分にとって必然だったとずっと意味を持たすことと、どちらがより人を重く捉えているか。

 

 

諸々の当たり前の観念が解きほぐされてきた僕の人生史。最初は社会常識とされている物があまりにも狭い領域でしか適応できないものだと分かる。ここから拡張されていき、時空=現実感の創作性。でなければ、それが哲学で語られるはずがなかった。ほんとに所与のものは言葉にする必要がない。

 

進行形ではお金に対する感覚のぶっ壊し。だからと言って破滅的に使うみたいなことではない。お金の価値に信用を置くことは、空想の他者を信用していることだという話が「性愛と資本主義」にあって、そんなところで生きてられんなと。空想の他者というのは、貨幣を求める他者が居るということなのだが(ざっくり)、この交換がいつまで成立するかは可能性の話でしかない。

 

愛は「不可能性」であるというという話もあった。愛する人と愛し合っていても、否、愛し合っているからこそ、愛する人が自分から離れていくかもしれないという不安が必然的につきまとう、とか。

 

これを解消するために、カジュアルな性愛に勤しむというのもありだが、そもそもこの「愛」の観念自体が、時空の共有の感覚を前提としているのだろうなと思索していたのが本日。なんで相手が離れることが愛でないことの証明になるのか、もともと愛の証明が近いことにあるのは何故か。そういう当たり前がインストールされているからに他ならない。

 

 

優しさの話とも通じるのだが、そもそも、人との関わりの深さを時空の共有の長さとするのがおかしい。だったら、職場の人間が一番近くなる。そうではないと言っても、プライベートの近さもプライベートの時空の中での近さを測って証明にしている。

 

ほんまか。

 

解きほぐす、の話にも通じるが、人同士のほんとの関わりにおいては時間とも空間とも連動がない。物体的な有体物とどれだけ共にしたとしても、データが収集できるだけで関わっているとはあまり言えない。要は、環境になるだけ。

 

自分の環境を守るためには人に優しくしておいた方が得だし、しなくても良いならきっとしなくなる。という時空的なものが普通の優しさ。

 

「もの」としての関わりは、別にやり取りも関係なくただお互いが存在を認識(承認)していれば成立する。何もしなくて良い相手を認識し続けるというのはとても難しいと思うのだが、ここが通じる人はどれくらい居るだろう。ここの関わりは現実ではなく感じ(感覚)的なものだから何の証拠もない。ただ存在が自分の中に居て、居る意味も分からない。

 

ただ、しなくても良いこと、言わなくても良いことが起こるだけのこと。

つまり、言葉自体にも特に意味はない。

 

この上で時空的に関わるのが楽しそうなのだが、こんなこと今までできたことがない。

 

 

まぁ、必然であればそのうち起こるだろうな。

 

では。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。