遊星

 

 

 

眠めの起き抜け、鏡を眺めるとかおがスッキリしている。と思ったら土曜日奈良に行く前に眉毛を整えたからか。野暮ったくならない程度で伸び悩むからほとんどメンテ不要なのだが、無駄毛を抜いて、ちょっと短くして梳くだけ。

 

中学生時、野球部のキャプテンがかなり薄くしていたが流行だったのだろうか。生えている方が良いのでは(メンテ不要という意味で)と聞いたら、薄ければ薄い方が良いとの答え。たしかにモテていたし、流行だったのか。僕もやってみようと画策した時期はあったが、今想うと薄くて細いのは違和感しかない。時間をかけたくないというのもあるし、これくらいがちょうど良いというの半々。ときどきアホ毛みたいなのは抜くが、所要時間1分にも満たない。

 

なんかすまんやでという感じだが、費用対効果がないから仕方がない。この効果は当然、自己満足も含まれる。まぁ何か異性関係で得をするというのもあるのか。僕はあんまり得した記録がないのだが、連動していないだけか。

 

なんだかずっと連動が窮屈だったのだよな。何かをしたからこう返ってくるとか、何かをすることにはこういう動機があるとかなんとか。

 

ずっと疑問というか、こういうものなのかとしていたのがまぁまぁしんどかった時期の言語表現なのかもしれない。ショーペンハウエルさんの「知性について」で、普通の人は認識(知性)が意志に奉仕することになって、意志が手綱を外すと知性は無為になるとのこと。これは僕が生きてきて人を観察していた実感もあって、なんで利害得失にこうも頭が回る人が、その外に考慮が全然ないのだろうって。

 

ショーさんは表現が辛辣で、知性を意志に従属させるのは動物がそれだと書いている。なんだか夏目さんの「それから」の高等遊民と似ているニュアンスだが、これは一般の人を馬鹿にしている訳ではなく、人間の認識やら思索の可能性は、生活の範疇に留まらないよねということなのだと思う。

 

ショーさん曰く、生活も認識の範疇になって、その反面、具体的な物的関係に齟齬をきたすのが天才だとのこと。僕もそんな感じになってきて解放された感はあるが、これは天才というより、狂人めいていると想う。個人的には異星人みたいなニュアンス。比較論ではないから、他人を見下すこともない。

 

認識のまなざしが漂うだけ。

 

僕の主観的な精神を言語化すると、意志はポンコツだから従うことを止めた。にもかかわらず、自分はむしろ活動的になっている。日々の生活の運動を他律にしないからだと評価しているのだが、この辺りは非言語領域ではある。やらないといけないでもなく、しようでもなく、ただする、みたいなニュアンス。している中で認識が試行する。

 

認識と意識はほとんど同じで良いのかな。意識ってまなざしというか注意と同じようなニュアンスだが、実際は自分という現象を捉えるようなこと。自分が何をしているか、何を感じているか、考えているかを内省ではなくただ眺める。

 

完全な客観はない。ほとんどの客観的という枕詞は、当人の意志の補強のために扱われる。皆が、とか普通はとか、なんなら統計データだってそう。

 

この、言葉と中身の概念を自分の中で検証するのがなかなか楽しい。

だいたいはきちんと概念の整理なく使われていて、使ったら勝ちみたいな魔法の言葉になっていると気付いた。別にそういう世界観は問題ないけど、きちんと自分の言葉として咀嚼できているのだろうかというのは気になる。

 

あと、無作為に色んな領域に遊びに行っている衝動を「好奇心」とも名付けていない。

奇妙なんて生活の舞台にもいくらでもあるし、走奇性がある訳でもない。あぁ、走〇性というのは、植物とか昆虫の習性のこと。例えば走光性だと光に寄る習性だし、重力に対して上向きになるとかもあったような(知りたい人は要検索)。

 

読むことは生きることと同義だから、気晴らしに本を読む「読書」というジャンルでもないし、散歩が好きなのもそんな感じ。走楽性か。

 

異星人めいているという自覚をきちんと持つべき(自戒)。

 

昨日の確率で捉える自分が生きていることについての希少性について。現代の平均寿命の基準だとだいたいの人生ははありふれているが、僕が捉えているのは、現代という括りではなくて、過去の全人類とこれから未来の人類という人全体の中で、現代のこの場所にこの意識があるという意味での存在の希少性だから、途方もない確率になるのではという話。

 

もっとミクロに見ても、何十年かの人生劇場において、生きていること自体が楽しいと想える自分で居られること。人の話を聞くと、誰でも何かを媒介にして自分の楽しさを語るのだが、媒介はあくまで二次情報だと思う素朴。

 

世界に楽しくない人は自分に楽しんでない人だし、楽しんでいる人は、自分から離れた気晴らし領域を持っている人、ほんまか。極楽とか涅槃とかニルヴァーナが宗教的世界観でしか語られないのはそういうことなのか。

 

自分を受容しないと一生地獄になるような。

ただ、これって他人を受け入れるより遥かに難しい。

 

知らんけど。

 

 

やれやれ。

 

ちょっと現実生活に戻ってきて。

 

仕事場で認識のまなざしを漂わせると、先生の振る舞いが興味深い。

新人さんへの発話の文字数がやたらと多いのって、期待値ではなく、この仕事はこれだけハードル高いからやめた方が良いよという無意識のメッセージなのではという読み味。

 

教育的なニュアンスであれば、段階を経て知識を植え付けていくことであって、まずはここのポイントだけ押さえましょうとなるはずだし。僕はあんまり何か具体的に教えられたイメージはない。あぁ、入った当初はまどろんでいた時期だったからか。

 

でも、新人さんはなんにも吸収している感じがない。

ある意味すげぇとは思う。知識でやろうとしてできる仕事ではないから、そこで勝負しようとしても無理。ベテランですら間違う。

 

隣のややウェイ系の先輩が間違っていることには先週金曜日に気付いたのだが、女性上司と相談した上でだし、下っぱの僕がそれを指摘することはできない。ただ聞こえてきただけだし。案の定間違った案内をされた人に当たり、貴方の認識の方が正ですと緩衝的に答える。

 

こんなの報告するしかないから年下上司に報告したらあんまりピンときてなかったが、先生に回って、ウェイ系の先輩に認識の齟齬を訂正するときに、「いや、女性上司に確認しましたけど」という感じ。

 

面白い。人って、他責にできる認識は丸投げできる。

いや、これは知識とかライフハックだっけ? みたいなもの。

 

個人的になんとなく転職案件だなと思ったところ。

古参の下を甘やかして、判断できない機械にするような仕事場にはそぐわないような。

 

気持ち良く退職できそう。

 

 

ちゃんと具体的な事象も観測できるハイブリット狂人。

 

燻って居る感じがあるのは、現実の場が何処に在っても対して変わらなくて、そこを意志していないから。こうなる為にどうしたら良いかのノウハウも継承できない。

 

今後の相談をしたいので、飲みの場を作って下さいと上司に言うか。

 

衝動したことはきちんとやる質。

やっているから、僕のことを個別的な存在とできる。

 

最後にどうでも良い話。

勉強できる人は勉強したと言わないのはなんでかという記事があって、中でやっているから表明しないという解釈だった。たしかにそういうことをしている「彼氏彼女の事情」みたいな人も居るのかもしれない。ただ、それを勉強とみなしていない層もありそう。

 

 

費用対効果で生きるのはしんどいですわ。

報いを求める人生劇場はとても悲劇的。

 

自殺が罰であるというのが旧来だったという「刑法の社会学」。

なるほど、罰を罪に転換するのは難しい。キリスト教だと自殺は罪だが、日本にはそういった土壌はないし。

 

自殺した人に対しても、あくまで当人の世界で捉えられる。その人のその瞬間の心持ちがどうだったかは事実的に観測できないから、惜しいとか寂しいとか主観で勝手に宣う。

 

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。