至る

 

 

人の数だけ関わり方がある。相性と縁と。

ただ、1人で完結できた後にほんとの関係があるのでは。ここに至るともはや関係ではない気もする。人間関係は存在しないでも良いのか。

 

 

さておき。

 

夢の話。

 

学校に遅刻するシーン。遅刻は恥ずかしいとしていたからとても嫌っだったなぁと想いつつ、今は、遅刻することもできるがしないだけという風に生活している模様。女の子(モデルは小学校4年時に転校してきた子)が、自分の頬っぺたを親指と人差し指を輪っかにしてつまんでこれは武器だからと言う。それは可愛らしいということ? と返す。

 

唐突にシーンが飛んで、森に落下している。速度が緩くて、とげとげした木の枝の細部まで見える。落ちることはできるが、飛翔するのは難しい。これは夢の世界にも重力が作用しているのではないかと考察しているのだが、そのうち飛べる気もする。

 

仕事の話。

 

どこぞの有名人が退場したという話題から、それぞれの家系の遺伝子的寿命の雑談。そんなに他人の終わりが気になるものなのか。いや、これは気になっているのではなくて、話題が他にないからとしておきたい。僕の家系で言うと、父親に倣うならあと10数年くらいで、祖父に倣うならまだ半分くらい。

 

他人とか、いつ起こるか知れない自分の終わりを気にする暇はない。たぶんテレビ見ていたら否応なく入ってくるのだろうけど、情報も自分で選ばないと、食べたくない物を常に食べさせられることになって胃もたれする。あくまで個人的な味覚。

 

遅番の駅ビル10階の休憩室はほぼ貸し切り。遠くの山間に霞がかっていて、おそらくあそこでは雨が降っているのだろうな、虹がかかりそう(かからなかった)。地下で煙草を吸った後に地上に出たら今度は雪がはらはら降っている。現実の光景も夢に勝るとも劣らず綺麗。生活的に見れば寒いのは不都合だが、寒さは寒いだけであって、そこに負の感情をセットにする必要はない。生活の話はまた後(今度になるかも)。

 

そういえば、おしゃれな先輩が髪を切っていた。前髪の間隔が広くてさっぱりしている。当然本人には言わない。人に焦点が当たるときには下心があるという観念を辞めると、人の変かも世界の変化の一部だからよく見えるようになる。

 

古参の先輩とちょっとした雑談。この仕事1年や2年でものになるものではなく、貴方は異常な例との高評価。個人的にはきちんと味わっているだけで、覚えることを止めたからなのだが、そこまで通じることはないだろうから、賢いという評価には曖昧に笑っておく。

 

知性皆無だから、常にここから。

 

「人間と都市」のポリス的都市観に、スコレーという観念があった。市民とは余暇がある人みたいな。その中で眺める(=テオリア)ところから哲学が生まれたとか。この時代から生活・非生活の区分けがあって、高尚な思想・創造は非生活(余白)から生まれるという観念があるみたい。

 

僕は見ての通り色々考えているし余白がないと世界は味わえないという立場だが、この余白と余暇は別のもの。むしろ、生活の中に余白がないと楽しくないから、生活時間でも能動的に過ごすことを意識する。既定された時間という括りで捉えれば寿命だってまさにそれで、時間つぶしの時間なんてない。いや、詰まらないなら潰すしかないが。

 

この区分けの取っ払いは、常識・当たり前の起源を考えることにも繋がる。考えるのであれば、全宇宙的な範囲にも広げる。突き詰めていけば、自分が自分となっている当たり前も含まれる。考えている基準自体を疑ってみるところから始める。

 

これが人生の醍醐味という味わいなのだが、自分を既定としていると難しい。

 

美学の判断力とか構想力とかを読んでいると、美感も味覚と同様に、意識して鍛えないと辿りつけない領域だと思う。そうすると、自分自体も、既定されているものから意識と思考で再構成しないと自分に至れないという発想が起こる。

 

一般的な既定路線上以外のレールに至らないと自分を疑う発想は起こらない。人格が分裂したままとかは、トラウマによって人格を分けないといけない出来事があったから。遺伝もあるのかもしれないが、普通の人って完璧な人と同じくらいフィクション的存在。

 

自分に辿りつける人は一握りなのかも。社会的な価値とは別の自分と他人。

やれやれ。

 

ノルウェイの森。この物語、筋はあるけどよくよく読むと何かおかしい。精神の内部を辿ったというか、たまたま僕が読んでいるからか。

 

「なんで鍵をかけなかったのだろう」。長く過ごした恋人さんが携帯に鍵をかけなかったことと連動。あと、ミドリが考える「愛」の理不尽さもなんとなく分かる。1回お腹いっぱいに愛されたら良いという感覚。微妙に無条件の愛とも違う。

 

僕にとっての愛は、宵顔さんが満足してくれたため、1人でも大丈夫になれてしまった。

この愛は、ミドリに負けず劣らず理不尽。自分にとって有用でもないし、好みでもないし、何もしないのに見るということ。僕の文章に価値もないはずなのに、全然通り過ぎてくれない。

 

あと連動としては、ワタナベ君は人からちっとも好かれなくて良いとしているのがある人達には反感を買うというやつ。好かれたいという邪心はなく単に自然に人と接する奴だった。これで現実に生きて良いのかというのは微妙なところだが、好かれても自由意志としては無関係で良いのか。

 

人は埋めるものではなく足すものであるし、自分を損なうことができるのは自分だけであって、他人には損なうことはできない。

 

という自己観を確保できるって、この時代ではとても難しいと思われる。

 

外を考える文章はいっぱいあるが、そもそもの自分を考えている文章はほとんどない。

別に良いけど。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。