きたいはずれ

 

 

 

また世界線が少しズレたような景色。

というか、本来はもっと皆ブレブレなのかもしれない。

 

満月さんが寝不足で悶々していた昨日に僕は安眠し、満月さんにお土産を買う夢を見た。何処かの観光地(広島の厳島神社か?)で、賞味期限1日の大福だった。

 

そして起きた後に、正論で叱られる。

怒声ではあるのだが、特に自分に都合良い世界線にしたい訳でもなさそうで、叱らせてしまんかったやでとなった。僕が引き寄せた世界線。別に罪悪感は無いが。

 

 

さておき。

 

別にスピリチュアルの話でもないのだが、本日はちょっとそっち寄りになるのかもしれない。まぁなんやかんや、世界の軸をどこに置くかということ。

 

 

壮大なポンコツムーブで運試しに負けてきた。

この区画では引き寄せ無理だなと思いつつ、面白いから行っている。引き換えにこの時間で2冊kindle読み放題から読んだのだが、この2冊がスピリチュアル系だったために、本日はそっちに寄っている。

 

僕はもはや十分楽しく生きているから瞑想とかは要らないのだが、潜在意識のコントールという領域は面白い。人は体の充足を求めているのだという潜在意識の考え方は確かにそうかもしれないという感じ。体が何かをしている時の充足という意味ではなく、状態としての充足。体(無意識)と意識の不一致が問題だから、引き寄せる現象も言語化されるような願望でもない。意識としては忌避している現象だとしても、無意識がそれを常態としていたら、無意識的ホメオスタシスでその現象が観測されるようになるし、言葉では足りない。

 

良い言葉を使うようにして、悪い言葉はなるべく使わないという一覧があった。悪いのは駄目とか、頑張るとか。駄目はポジティブに遣おうとしても今が駄目だという意味になるから不調和で、頑張るは無理してないといけないということになるから。

 

まぁ、別にどちらの言葉も僕は使うのだが、中では遣ってない。頑張るに関しては、スピリチュアル系の言霊論を知る前から素朴にこれ駄目なやつだなと感じていた。大昔の日記(たぶんもう残っていない)に頑なに張ったらそのうち切れるだけと書いていた。その時間から持ち帰って来られるものは、とんと少ない。

 

あと、スピリチュアル系で親和性があるのが、物事は解釈次第というというところ。

解釈するものさしは基本的に社会規範から持って来ている訳で、どう捉えるかは任意でしかない。これは客観的にどんなに悲惨なことに遭遇したとしても変わらない。

 

これも面白くて、解釈が言語でされるときはだいたいは外付けのものさしから来ているという話。自分が捉えることに他のものさしから確証を求めているという意味では分かる。

 

あと、意識を身体から離して俯瞰してみるというトレーニングがあるらしい。3メートルくらいから自分を眺めるとか。やってみたら、僕の体すら見られない宇宙の果てまで飛んで居た。もはや肉体要らんやん。

 

とはいえ、これだけ意識を飛ばせるのは肉体ありきなのは分かる。

意識は肉体的な脳の外にあると説を提唱している物理学者さんも居るらしい。分かりみとしても、肉体のフットワークが精神の可動域を決めているのは在りうる。もう肉体年齢としては良い歳だが、早歩きで足りないときには走って移動しているし、別に息も切れない。ヘビースモーカーなのに。

 

 

そういえば、ちょっと脱線して、声を道具にして活動している人の動画を見ていた。人間の固体を意識の可動域(道具)と解釈すれば、良い声しているとか会話が上手いとかで生きるのも1つの存在なのだろうなという感じ。肉体は今のところ前提だし。

 

今の時代、寝落ちトークというのがあるらしいが、普通に昔やっていた気がする、需要があるのは分かる。声って結構存在感あるし。僕はイケボではないが、声の可動性ももっとある気がしてきた経験則。

 

 

やれやれ。

 

今日文字数少ないな。

 

無意識が人それぞれ何かを目的としているというスピリチュアル論で言うと、僕の無意識が求めていることってまだなんも分からない。とりあえず本を起点としているし、何事も楽しいし、特に言葉に重きはないが、描写体としては言葉なのだろうなという感じ。

 

とりあえず、世界の在り様は肯定しているから、これ以上楽しいこと在って良いのかという感じ。僕の無意識はだいぶやばい。

 

人がもっと抽象的に存在として軽くなれば良いなと思っているが、満月さんさえ軽くできていない時点でどうも違うのかもしれない。一緒に住めばもっと楽しくなりそうな予感はあるけども。

 

はいここまで。

 

おやすみなさい。

 

言葉に必要以上に囚われて居ませんように。

 

良い夢を。