なま

 

 

ここはとても静か。無音の波がとても響く。

やはり変な存在。

 

 

駅ビルの本屋さんで立ち読みした本に「妻に龍が憑きまして」というのがあったが、龍を宿した人の訪問があった。個人的に人格のような精神性を持った存在として龍なるものがあるとは思わないし全然オーラも見えない。

 

ただ、科学的な観測能力は及ばなくても素朴な人間に感知できるエネルギーの「溜り」のようなものは在るのだろうなという感じはある。宇宙論で言えばダークマターとかダークエネルギーみたいな存在は推測されているが観測できないエネルギーと同系列なのではと勝手に思っている。

 

御神木とか古木とか神宮とか大社にそういう空気があるような感じ。エネルギーの溜りに志向性を持たせたら神様のような存在になるのだろうな。信仰の対象ではないだろうなとは思うが。信じるではなく、在るもの。僕はオーラが見えないのだが、これって、視覚でそういうものが読めたら景色が見られないから、別のところで読んでいるという節がなくもないのかもとか無造作に想う。味覚っぽいよな。趣味判断。

 

物理学の最新観測機器でさえ宇宙の構造が解明されていない以上、生身が感じるものが経験則から離れたとてなんの不思議もないよなというだけのこと。龍が居たって何人も居たって宇宙はそれぞれ。

 

 

本日の二度寝の夢は今までと随分毛色が違う、畏れ多い感じの異界だった。

 

飲み会みたいなことをしていたのかどうか定かではないが、街並みが何やらおかしい。トンネルをくぐって、駅に向かう。改札の中に剥き出しの飲み屋があって、それまで一緒に歩いていた中学時代の友人がそこで一心不乱に何かを食べだす。千と千尋の神隠しの豚になるやつみたいだ。

 

シーンがいつの間にか変わって、森の中の道路を歩いているのだが、誰も居なさそうなところに女の人が居る。そこにとなりのトトロ時代の車が通りかかり、何やら2、3人で話しているのだが、日本語のようで日本語でないような、何を話しているのか分からない。貴方懲りないね、諦めなさいよと警察官みたいな人が車の運転手に言っているような感じ。

 

奥に入ると乗馬場めいている。馬に乗った平安時代の貴族のような服装の人の後に続いて、おっことぬしのような巨大な老イノシシが歩いていた。見つからないように斜面を登って隠れる。

 

書いて見るとジブリの二次創作みたいだが、神様の世界ってこういうところだろうなとなんとなく想った夢だった。空にエネルギーの溜りを見るか、地に見るか、本質的には同じことだろうな。僕は高次の存在に特に助けを求めるようなことはないから、地道に観念を更新している。

 

まぁ、何の修行もしてないただの一般人です。

 

最近ここの僕とおしゃべりしてくれる方が居る。あだ名、どうしようかな。便宜的に哲学少女としておく(怒られそう)。とても近かった人と離れることになって、何が辛いのかというと、「この人に何かあっても、ひいては退場したとしてもすぐには感知できないし、何もできない」ところとのこと。

 

分かりみ。

 

ただ、人に何かがあったかどうかって、どれだけ一緒に過ごしても存在が別だから離れるタイミングはあり、それこそ完全に同一化しないとそんなことはできない。何もできないというも、個人的な感覚として人は人に対して本質的には何もできないというのがある。

 

でも、関わることはなくても、なんだか退場して欲しくないと思ってしまう人が居るのも確か。自分の退場に関しては特に何も想うことはない。起こるようにしてそうなるだろうし。観測できる近さがあるから生生しい人として感情が起こっている訳でもなさそう。1人の例を挙げると、芙蓉の名前をもじっている人。あと数年でという記述に、まだ退場するのは早いのではと寂しくなってしまった。

 

奔放な人っぽいが、別に僕を巻き込むつもりもなく、僕もこれ以上の関わりはないだろうなとしているし、直に会ったことも話したこともないのにただそういう感覚が起こった。この方も僕の文章は結構持続的に読んでおられるのでは、という印象。

 

 

長引けることを祈る。

 

存在としての感知のレーダーがバグっているのではないかと思わなくもないが、もともとこういう感じではあったのか。経験則で判断してくる人には経験則で返すが、インターネット世界に生身で居る人は人として読んでしまう。最初のSNSのモバゲーで関わった人を想い出す。皆長引いていると良いな。実生活の雑談的やりとりよりもずっと残っている。

 

という感じで、僕はそもそも人を自分の存在からの関心で見てない模様。ここの観念、経験則の集積が全く役に立たない。邪念とか下心とかあわよくばみたいな交換的なものはなく人と接するのは難しいように見受けられる。

 

人に感じる印象は自分の鏡から来る反響であって、そこからさらに相手からの反響もある訳で、同定できる関係なぞない。

 

なんだっけ、ずるしたところで財産を蓄えるみたいな観念はないから、何を返そうかばっかり想う。

 

 

ノルウェイの森のバイブル感。

 

緑が語る世の中の不合理はとても分かりみ。自分が分かってないことが知られるのが恐ろしいから、専門用語でごまかす人達が出てくる。学生闘争時代だからいっぱい居たのだろうと想像するが、今でもこういう層は存在する。

 

消化も昇華もできてないのに専門用語を語って、これで分からないのは相手が悪いと他責にできるなんちゃって知識人。こういう人にはなりたくないところ。教養の本質は自分のそれまでの常識がぶっ壊されること。

 

ワタナベと緑のやり取りはなんとなく仏教の問答感がある。これは役に立つのですか、役には立たない、ただ、物事を系統的に捉える訓練にはなる。

 

僕もめっきり役に立つことはできない。自他に対して。

 

有用かどうかの基準は旧来の自分の経験則で作り上げている世界でのことであって、その基準で生きたからホコリにまみれてきた訳で、役に立つかどうかのものさしは全然信用できない。

 

こういうレーダーに何を置くかというと、放置で良いのではないかと想っている。

エゴでやろうとすると歪むから、自然に流す。

 

所与で良いというのは、宗教観でもスピリチュアル観でもなく、科学的なところ。この意識であれることが、エントロピー上で奇跡的な確率らしい。たしかに人ではない自己を観測する意識の配置っておかしい。他と同定できない自己を観測できるのは、人の特権。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。