日記

 

 

こういう時でないと見ないテレビ。待合室をはしごした2か所で眺めた1日。

 

 

昨日あれから布団に入ったのは良いが、情報量が多くて寝不足。悲壮な考えではなく、楽観で埋まる。健康診断だし寝坊さえしなければ多少寝不足でも問題無かろうとしばらく夢現を楽しむ。例えば、誰かに会いたいなぁではなく、会うことがあれば楽しいだろうなぁとか。

他には色々発見があった気がしたが、うつらうつらに消えた発想は重大発見に感じてしまうのが常。

 

 

予定通りに起きたが整腸までは予定通りにゆかず遅刻するかと思った。現地で道に迷うことも想定して余裕を取っていた分が埋まって予約の丁度30分前に着いた。しかし、健康診断のために平日は乗らない電車に乗って通勤ラッシュに巻き込まれるのはなんとも。行きたいとなったところには責任をもって行くが。

 

待合室のテレビでは朝の情報番組が流れていて、見たこともない女性芸人が、スイーツ巡りをしていた。ドーナツが美味そう。こちらは何もしなくて良いから寝不足でもすんなり浸透してくる。見てくれの悪さを売りにしているのだろうが、こういうのを長時間見るとしんどくなるだろうな。見てくれがどうのではなく、キャラ付けの相対性という意味。

 

診断はウォークラリーのよう。構造が同じだから次何番ですよと言われてもさっぱり頭に入ってこない。度々純粋に迷子になった。

 

ここで全く需要がなかろう、最新身体プロフィール。身長は何故か1㎝程伸びていた。たぶんくせ毛の弾力だと思う。173.1。体重が53.8。高3の頃よりは1キロくらい増えているが、全盛期の工場で軽作業していた頃の56キロ(筋量の関係)からは減っている。この幅から動いたことがない。たぶんこれが僕の適正。血圧は良いか。後で調べてみたところ平均くらい。視力が両目1.2。前測った時は1.5だったような。寝不足で目がしょぼしょぼしていた感も否めないのだが、どれくらい見えるかより何を見る方が大事。順調に経年しているということでも別にいい。

 

胃の検査は何やらアトラクションのようで楽しかった。いや、検査を楽しむなよという感じだが、神妙な態度で受けようが楽しもうが、準備ができていて指示にきちんと従えば同じことと思われます。内心は外から見えない。

 

発泡剤もバリウムも特に変な感じはなかった。発泡剤の胃が膨らむ感はなんだか馴れている(ビール)。その後、下剤を飲みバリウムを排出させる。下剤も初めて飲んだ。2時間程でそのまま出てきた(下世話)。下剤で促されているのだろうが、消化されなくて何も胃腸に無ければこれくらいで人体を一通りするのかと考えると何か凄みを感じる。

 

 

帰りは、中心地に来たのだからついでに大型書店に寄ろうか、という選択肢が一瞬上がってきて、「ついででは良い本はやって来ない」というもっとも反対意見に従ってそのまま帰った。今のラインナップかなり良いから、ここに割り込む本はなかなかない。

 

スーパーで買った天ぷらうどんとおいなりさんを食べてひと眠り。起きて、ずっと懸念材料だったタスクを消化することに思い至る。平日休みがなくて二年前の定期健診からスルーしていた歯医者さん。事務的通話に対するハードル下げた今の仕事は素晴らしい。被せ物が取れていて浸みていた。あわよくばと思ったらそうなって、即日診断してくれることに。

 

徒歩5分くらい。待合室ではまたテレビ。今度は夕方の情報番組で、朝とはうって変わって切迫した面持ち。こういう空間を隔てた事象に人は現実感を抱くのかな。現実感って結局生々しさと定義して良いのかとなる。切迫しているのは分かるのだが、何かが弛緩しているような。リアルタイム感というかなんというか。

 

被せ物はこの歯医者さんで作って貰っていたものだったらしく、再接着で終わった。帰りに小腹が空いたためコンビニに寄り、朝見たドーナツに影響されておやつを買う。結局ドーナツではなくホットケーキが上に乗ったプリン。それと、納豆巻き。コンビニの納豆巻きは長く過ごした恋人さんが好きだったな。ついでに直近の方は明太マヨ。

 

最近は、バターを見ると一緒に過ごしたことない誰かさんが出てくる。

 

 

以上が素面の寝不足(たぶん4時間くらいの睡眠)で過ごした1日の情報。人の1日の記述は異世界みたいなものだという記述をある方(一切やり取りしたことないからあだ名が付けられない)の文章で見かけた。たしかに、人がその時なにを見てなにを感じたかの記述って、再現できないし生生しさもない。でも、存在感はある。

 

僕はどうも、人や物事のこの異世界のような境界を現実としている節がありそう。

記述は装えるが一辺倒な表現はそういう味が滲み出る。

 

生々しい現実には、自分の体の現象と、皆が生々しく捉えるべきみたいな規範的な現象がある。採血で流れ出した血液は僕にとっては生々しいが、ここで書いている言葉にはこの現実感はなかろう。

 

 

ちょっと脇道に逸れて。

 

素面の情報量の多さ。酔っぱらっていても特に変わらずしたいことをしているのだが、素面になるともう1ステップある。そのやっている所作は相手にそう想われたいからやっているのではないか、とかの自分は本当にそれをしたいのかというブレーキになりそうな熟慮野郎。

 

例えば、僕はお祈りとか自分がそれをすることが嬉しいからやっているだけだが、それをしているのを書いたり見せたりすることは、相手の嬉しさのためにやっているのではないか、そんな交換的な運動ならやめてしまえ、みたいな。

 

確かに正論ではある。あえて言葉にすることには意味があるという風潮だし、その交換に倣ってやってないかって。もちろんここには相手の挙動は無関係。欲しいって言って来られたらたぶんあげない。

 

交換的関係における言葉は貨幣と同じようなもの。貨幣はあくまで手段であって衝動の中身ではない。あぁ、同じように積むものなのか。知らんけど。

 

 

そうして、ノルウェイの森

下巻ももうそろそろ終わる。緑とワタナベがなんか良い感じになって、雨の中で抱き合っているのだが、ここにちっとも生生しさを感じない自分が居ることに気付く。

 

緑のキャラがあまりに現実的でないという説が哲学少女とのやり取りでたまたま出てきた。たしかにこれもありうる。現実的には存在しなさそうな女性像。とは別に、僕は物語に移入して読む人だから、現実味がないキャラでも生々しく読む。ただ、この話の登場人物って、基本的に全員生々しくない。もしかしたら、冒頭の飛行機のシーン以外、創作的な入れ子構造なのか。

 

まぁ、僕も今、女体を抱き締めたら、女の子ってこんなに柔らかかったのかって感じるだろうし、ワタナベのような台詞も吐くかもしれん。

 

 

結局、生々しい現実感とは何ぞ。

 

 

はい、おやすみなさい。

 

 

良い夢現を。