どの管の夢を選んだか

 

 

 

夢は実家の裏山がベースになっていて、何かフェスがあったらしい。放置自転車やイベントTシャツが散乱している。服をトラックに積み込み、そういうショップに引き取ってもらいに行くと、もう次のイベント用の衣装があるしなぁと渋られる。

 

なんやよく分からないが、車から空を見上げると虹が4本かかっていて綺麗だったシーンもあった。現実では随分と見ていない。

 

よく寝たからか随分調子が良さげな1日。小躍りしながら夕飯を作るくらいには元気。夢と合わせると、1回は何処かの何かのライブに行って音の波に合わせて体を揺らすのかもしれない。世界に自分を開く試行。

 

仕事も楽しい。来週から席が変わり雑談ゾーンから少し離れるみたい。都合が良い。天気が良くて外でお弁当。人間は光合成しないが、セロトニンは精製できるのだよな、たしか。副菜の色合いがお洒落なのも上々。ブロッコリーをレンチンし、ミニトマトも細かく切って1分間レンチン。ペースト状になったミニトマトと鰹節で和える。味付けはお酢と塩。

 

調子が良いと思索も捗る。素面はほとんど非言語でやるし、もっと問題なのが特に言語化を欲しない。こんなの書いても外に対して意味がないではなく、自分の中で意味がないというところ。なので、無理矢理引っ張り出す。これも開く方向なのか。ちなみにまだ日常の夜を完全な素面にシフトした訳ではない。減らしただけ。

 

 

 

ここから。

 

健康ってなんだろうな。という発想。

 

例えば僕が幸せを祈るのは、当人の中で幸せだと思う状態になりますようにということであり、僕が想う幸せな状態になれますようにでは全くない。では健康はどうか。お友達が健康を祈ってくれたものだからこの概念が気になってきた。

 

諸々の肉体の測定値が問題ないとされる幅を越えないことだとしてみたとき、この肉体状況は良好と言えるが、数値的に問題なくても頭痛や腰痛があるなら健康とは言えない。では、体に不具合を感じないという意味合いの健康。これだと体を意識しなくて良い状態のようになる。この意味合いで完璧な健康だったのは、幼少期とか成長期のもはや戻らない頃であって健康にはもはや一生なれない。

 

まぁ再検査になりませんようにというくらいの意味の説はあるが、ちょっと置いておく。

 

幸せと健康が違うのは、幸せは当人がそう想えば成り立つが、健康は自分が健康だと思い込んだところではそうはならないという何か客観的な指標のイメージが含まれているなと。健康的生活をするという運動は健康とはやや離れてくるし。

 

今の時代の健康は何ぞやというのも良く分からない。朝ごはんなり3食が推奨されているが、素朴だと、胃が空っぽになる時間があった方が丁度良いし、満腹感は要らない。むしろ体調不良の時の方がよく食べる。それに健康的生活も二大巨頭を止めてないところからしていないし。

 

トータル、健康って神様と同じくらいの仮象であって、この概念自体にはあまり意味はなく、人それぞれでどうにでも埋められるものなのではという感じ。僕のイメージではむしろあまり食べなくて済む状態の方が健康なのではという埋め方だし。

 

精神の健康って言っても何かしっくりこないような。

 

不健康でも地球を楽しめれば良いと思う。

 

さらに潜ってここからが本番。

 

たしかに、僕のこの体、まぁまぁ健康っぽい。歯医者と接骨院以外でお医者にかかったことないし、精神的にも今や特に負がない。スピリチュアル系のnoteで、病気はなぜそれにかかったのかを理解しないといけない、というような話があった。地球を楽しむというのもこの方の記事にあったな。

 

だったら、この健康体はなんなのだろう。

 

こういうことを考えていると、ふと、この僕の始まりになった、3年程前に見た「PIPE DREAM」という死についてのインタビューを素にした演劇を想い出す。この中に、生まれたことが当たりだという発言があった。これに対して、生まれることは本当に当たりなのか、肉体を得ることはむしろ外れなのではという思考実験をしたのだった。

 

ふたつを繋げてさらに実験。

 

1つの肉体には人生というパイプが用意されている。肉体を得る前の存在。人格は無い(肉体がないから)のだろうが、分かり易く擬人化して。肉体を選んで生まれてくるという発想はありふれているからそれを採用すると、それぞれ何かしら志向性を持って生まれている。

 

別に一般化するつもりはないしできない。僕のこの器に絞る。これ、きっと売れ残りだったのだろうなと想った。たしかに健康体だが、使い勝手が悪い。社会的な成功を衝動しないし、まどろみながら肉体のパイプが通れる訳でもないし、面倒くさいに違いない。なにせ何ができるのにも自分になるにも時間がかかる。

 

でも、僕はこの器で良かったし、むしろこれしかないというくらい馴染んでいる。

これでなければ地球を楽しめなかった。あとは開くだけ。好きとか嫌いとか決めないし、統一感も不要。

 

あと、くじ引きであるという説。パイプドリームガチャという造語が思い浮かぶ。この考え方の方が現実的な感覚には一致してそう。資本主義のレールの中での相対的存在の星の数。

 

僕のこれはこの意味で言ったら、ノーマル3つ星くらいな感じ。ガチャで言えば選ばれなくてもまぁまぁ良い位置か。

 

相対性の感覚って貨幣が浸透する社会では当たり前にインストールされるものなのだろうなというのが、「性愛と資本主義」。売る者は欲する人が居るという意味で自己を確立するから、どうしてもアイデンティティが他者に依存する。

 

貨幣と言えば、財布忘れても平日なら過ごせることが分かり、身軽だわと(気分的に)ぴょんぴょんしたのだが、蛇足である。

 

自分のパイプで地球を楽しめるのであればよく見てもっと開けば良いだろうなとなる。

 

基本的に人の話を聞くのが嬉しい。聞き出すのではなく、自然と話される当人の本人のこと。自分のことが理解されなくても良いというのは、どうせ理解されないという投げやりではなくて、優先順位が低いだけ。

 

自分の絶対的指標には相対的視点はないから、これをいちいち相対的なものさしに引き直そうしたのが間違いだった。

 

もちろん、僕は外面では普通の社会人(会社勤めという意味ではなく、この社会に生息している人という意)だから相対的感覚も分かる。ここで生きているし。

 

あと、生々しさの話もあったのだが、時間切れか。

 

今っぽい時間と、ここっぽい空間を併せて生々しい現実としているみたいだけど、ほんとにいまここに生きていると、生々しさという観念は無用なのではないか、みたいな。

 

自分の感性で生きないとな。

 

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。