平常とは

 

 

 

どの日記を読んでもその存在が偏頗なく読まれる文章ってどんなものだろう。テーマは無しだろうし、一定の文字数も要る。日記とかエッセィは近そうだが、達人なら日常描写なくても表現できるのかもしれない。果てなき技術みたいなことではなく、どうやったら写し取れるのだろうという話。

 

岡田さんの動画で、朝一でスマホを見る前にA5ノートで3ページ毎日文章を書くと生きるのが楽になるという話があった。僕自身は楽より上位の楽しいだから問題ないのだが、なんとなく面白い。これは別に「何も書けない」で埋めても良いらしいのだが、効用として理性脳を疲れさせるとのこと。理性脳はいわゆる常識的なシステムでリスク回避な保守人格。反対にあるのがアーティスト脳らしい。こっちは偶発的とか直感的。

 

何が面白いというと、この人の動画を見だしたのはこっちに来てからのたかだか2カ月くらい。なのに、なんとなくネーミングセンスが近いところ。文章脳はパクリではない。もともともとアニメとか漫画のビジュアル的な畑の人っぽいから、相談文もアニメ的に読んでいそう。

 

何にせよ書き出すことが良いことだというのは、義務教育では教わらない。理性脳がほんとに論理的に判断していないということを可視化させるという意味で、あんまり一般化させない方が良いという裏があるのかもしれない(なんちゃって陰謀論)。ほんとうは教える側が理性脳だから、アーティストを働かすことに意味を見出さないという風潮があるのだと思う。作文の課題だってあくまで必ずテーマがある。

 

ついでにこのノートは誰にも見せないというルールがある。そうすると、見てくれを気にしない理性脳の本音が出てくるという感じだった。

 

個人的に解釈するとこの理性脳って、不安しか煽ってこない。ここが働くということは何か生活からずれているということで、その今までのレールに戻して来ようとする感じ。事なかれ主義。いや、これはあくまで僕の中の理性脳なのかも。

 

僕が言う文章脳は若干脳内に引きこもることだが、ガラス張りで公開されることが予定されている。公開されるのだからある程度は読み物になっていないといけない。だからといって見てくれだけ良くしても仕方がない。変化ならともかく、取り繕えば読んだ人にはきっと分かってしまう。まぁこの分かるの筆頭は「第三者たる自分」だが。この読者、無茶苦茶怖くないか。僕のコイツは好きに描けば良いという器だから特に検閲がない。理性脳がせっせと働く人は書くのが大変だと思う。なるほど、この日記は理性脳が読まなくても良いから、第三者たる傍観者が眺めているだけ。

 

こんな話を書いていると分裂傾向みたいに分析されそうだが、個人的にはどんな時でも一貫した統一的な自我があるという器観のほうがちょっとおかしいのではないかという感じ。どんな人でも反社会的な内心はありうるし、これを許容したのが憲法で言うところの思想・内心の自由なのに、行動がズレていなくても精神がずれていると攻撃して良さげになる感じとか、個人と社会のバランスが取れていない。

 

あんまり書いてもしょうがない話だが、結婚観とかある意味面白い。

面接の時に僕と満月さんの関係とか年齢を聞いた社長は、結婚が気になる年齢よなと仰っていた。たしかにこれは社会的な枠ではありうるレールで、そろそろレールに乗った方が方が良いみたいなやんわりアドバイスみたいなところもある。本質は、そういうモチベーションがないと仕事が続かないよねという一般的(当人的)人生劇場へのいざない(誘い)だと思って。家庭を守るために仕事があるという価値観。

 

これは面接だから問題ないけれど、心配という体でマウントを取りながらそろそろ結婚した方が良いという自分のレールに寄せて安心したいという人も一定数居るような。この価値観ってふと思い付いたのだが、当人の人生劇場に異物があると理性脳がもぞもぞするという感じなのかもしれない。

 

もぞもぞは分かるが、僕は人の生き方の方向性を誘導するようなアドバイスをするような高尚な人物ではないから、単純に配偶者と婚姻すれば良いみたいなことは言えない。

 

まぁ世界観は人それぞれ。

 

 

やれやれ。

 

やっと日記パートになる。

 

素面で空腹で体温はほかほかで寝付けなくて、5時間弱睡眠で目覚め。

隈は濃厚だがなんとなく調子が良い。まだ起床時間ではないまどろみ満月さんに挨拶して出発。

 

健康診断はすぐ終わった。視力検査がこの前よりもアップして、両目が2.0になった。古典的な視力検査表だから、下手したらちらっと見た無意識が覚えていたという説はあるが、見えるように言ったら当たったから仕方ない。最近の視力検査の覗き込むのって周りの光量が強いから、眩しさで穴がぼやけるのかも。

 

検査結果は案の定、心配していた調整不足の項目がややアウトになった。焼き肉の時に飲み過ぎたらしい。2週間断酒したら収まるらしい数値をいちいち気にしていられるかいな。

 

採血は浮き上がった静脈からのパターンだった。

別に恐怖はないけれど、異物感はある。

 

 

そうして空き時間7時間。

 

まずは空腹を満たそうかと地下街をうろうろする。美味しそうなご飯系のお店に入ろうかと思いつつ、なんとなくいつもの松屋にした。その後本屋とか名古屋城とか色々あったのだが、血糖値が上がって来てぼんやりするし、街の人の動きに酔うし、てきとーな遊び場で鎮座した。健康診断代くらいはあぶく銭があったのはともかく。

 

名古屋の街とほんと相性が良くない。地場なのか県民性なのかは不明。

人情が無いという話ではない。本屋に寄った後のエスカレーターで、後ろの女性から「すいません、リュックのファスナーが全開で心配です」と言われて若干申し訳なくなる。僕のリュックはしばしばパカパカしているが、抜けているのではなく通常営業。

 

たぶんだけど、相手の動線に合わせるみたいな感覚があんまりない県民性なのかなって。別にぶつかったりすることはないけど、ルートはそれぞれ個人で動いているから読みながらすいすい動けない。空いているルートがあれば向こうから来るかもという可能性は度外視して全体に拡がる。だもんで、漫画アプリでベイビーステップを読みながらゆっくり歩いた。

 

大阪もごちゃごちゃしているけれど、ちゃんと人の流れがあるからそんなに疲れない。疲労度が違うのが分かるのは、色んな街で過ごしているから、実家界隈は人がほんとほとんど居ないから、完全なマイペースで、あくまで人は可能性として存在しているという感じ。

 

なんだろうな、この違い。

まぁ人が多くならないと人の流れも起こらないから、何か色々あるのかも。

 

別に疲れさせる物事が悪いとかはなく、何が僕を疲れさせるのかの方が気になっている。僕の都合通りという理想の世界も特に設定がない。

 

それでも健康診断書を取りに行くのに1時間程余った。

本日は調子が良い日だと思ったから、ジュンク堂ではなくブックオフでの出逢いを選ぶギャンブラー。

 

昨日書いた「ある男」はあった。あと、そろそろまだ読んでない分野ということで「財政学」の入門書をゲット。個人的な最上級は、「虎よ、虎よ!」。森博嗣さんの最近の小説に引用文があって、ずっと原文読みたいなと思っていたら発見。この小説に惹かれていたことは過去の日記を検索すれば出てくるはず。やっと出逢えた。

 

テレポーテーションできる人類が出てくるSFなのだが、たしかに、空間移動のルールが社会の承認を得ない動きをする人が居ることは社会構造をぶっ壊すよなって。まだ冒頭なのでお楽しみはこれから。

 

お楽しみ小説と言えば、満月さんの創作中の小説も旨味。小説でも日記でもなんでも良いけども、現実描写が頭の中に浮かんでくる文章が個人的に美味しい。これってどれだけ詳細に説明されていても起こらないことはあるし、文字が少なくてもパーンと映ることもあるから、単に状況を常用文で説明するのが上手いとは違う。

 

満月さんがどこかに公開することになるか知らないけども、完成されたら感想文で1本書こう(読ませてもらえるのが前提)。

 

 

美味しいと言えば、人混みと寝不足に疲れて帰ってきた後、満月さんは作らなくても良いよという雰囲気を出していたが、せっせとご飯を作った。

 

「せっせ」だと義務感が出るか。「ほっほ」にしとこう。

豚ひき肉ともやしとにらの醤系ラーメン。スープは前のよりたぶんうまい。これはリクエスト。

 

他に何を作ろうかとなったとき、僕は完成品の名前が付いた料理ベースで食べたい物は無くて、あくまで素材ベース(なんなら味の感じベース)だから、人に「何食べたい」って聞かれても特に思いつかないのだろう。ほんとに食べたいものが無いのではなく、食べたい感じと完成品があんまり合わないだけなのではという、あくまで仮設・

 

副菜はトマトとブロッコリースプラウトと粉チーズとオリーブオイルと塩昆布とハーブソルトで混ぜてみた。本日の食べたい素材(なんなら栄養素ベース)だから、満月さんにとって美味しいかは知らない。

 

あ、もう1品。

これは僕が食べたかった訳ではないのだが、昨日満月さんがお母様に「硯さんは味玉を作ってくれる」と言っていたし、卵がいっぱいあったし。半熟気味になってしまったが、味見した感じ本日のラーメンと合いそう。お弁当に持って行くのは黄味がはみ出そう。

 

あ、ついでにチョレギサラダのドレッシング風も自家製した。

美味しかったからあんまり残ってなくて満月さんに怒られるかもしれない。量産はできるから明日で良いのか、いやその前に白玉ぜんざい。

 

 

 

最後というか、最初。

 

ブックオフで今まで自分が無関心としていた分野で探していたとき(これで財政学がやってきた)、いや人生劇場として生きている限りどんな分野でも無関係ではないよなって。どんなことも自分に関係がないという価値観であるだけ。

 

道端に置き去りにされたわんこの落とし物は見えるけど何もしなくて良い。もちろん、行動のレベルでそんなことをしていたらきりがないし、そんなことを地球的にしようとしたら身体が足りない。

 

ここで言っているのは行動ではなく認識の話。

認識であれば身体の枠は越えられる。超えた所で現実は変わらないけど、現実感は変わると思うんだよな。そうでなければいまここに僕は居ない。

 

本日はここまで。

また明日。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。