行儀が悪い

 

 

 

なんだかやたらとそわそわする心。不安と名前を付けても良いが、個人的には春のために浮足立っているとしておく。夕方に出かけたら民家の庭に桜のような花が咲いており、道路に目を凝らすと花びらが散りばめられている。

 

別に何かが起こったり、始まったりはしないだろうが、そこは構わない。

あぁ、(存在を)撫でたからというのもあるのか。ここはやらかしてないかというものあるが、ふわふわしてしまう。

 

さておき。

 

ほとんど何も考えなかった1日。こういう日も良き。自分を甘やかしているような感じだが、好きなように生きれば良いという放任。最大の尊重は放任であるのかもしれない。進歩とか充足も求めてないし。

 

クローニングは遅々とした進捗。一応土台は整ったかなという感じ。僕以外がこの器の乗り手だったら、自分に絶望していたかも。ポンコツなりにきちんと踏みしめて動いているのだが、いちいち足もとを気にして一足跳びに都合の良さに飛びつくことができない。不器用で仕方ないと思う。我ながら。

 

コンピュータの言語も面白い。1文字でも合ってなければ上手くいかない。人のように察してくれないという意味でなかなか可愛げがある。いちいち定義して道筋を説明してあげないと進まない。にもかかわらず、人間の進歩最大の功労メディアでもあるという。Wordpressにも繋がっていそうな感じで楽しみ。英語にも馴れそうだし。

 

 

夜ご飯。茄子が広告の品だったため、中華系の気分になる。鶏肩肉(だいたい日曜日に安くなっている)と茄子、ピーマン、新玉ねぎを炒め、マーラージャンとテンメンジャンと醤油、酒、砂糖で味付け。具材がイメージ通りとろとろで甘辛で良い塩梅。副菜はきゅうりの浅漬け。塩、かつおだし、昆布茶。きゅうりって独特の水っぽい匂いがある。

 

次の日が仕事のお風呂読書のお供は水にした。使い道ないだろうなと思っていた前の前の職場で押し付けられた、水筒(飲み口がカフェの蓋付きのやつみたい)が活用されている。

 

 

ともあれ。

 

何か考えるか。

 

「性愛と資本主義」で、情熱的愛は「結婚」と対立するという話があった。結婚(厳密には婚姻)制度についても一頻り思索したことがある気がする。僕は別に無政府主義者でもないから、制度として使う分には何も問題なかろうという感じ。

 

この本では、資本主義と繋げて、結婚制度は等価交換の関係にあり愛はそれとは別に姦淫でないといけないという話。等価交換とは男の愛が財産で、対する女の愛は体とのこと。たしかに大っぴらに言われないだけで、そういう無意識は浸透している。どちらも価値があるもので、それを個人的に交換することで関係が成り立つ。

 

僕はここに人類学というか社会学というか政治学的な視点も入れて、外から分かり易い(管理しやすい)という面があったのではないかと考えている。種の繁栄みたいな遺伝的なものを価値観に引き直して、家族という単位で安心とけん制を同時に得る。家族が国家から独立した1つの社会だという風潮は個人主義の導入によって部分的に瓦解したが、ウチとソトの感覚はまだ残っている。

 

法は家庭に立ち入らずのシステムが成り立たなかったのは、親は自然発生的になるものであって政治(共存のための技術のこと)については素人だものなと。子育ての仕方とか家庭内のルール構築とかが前世代からの不文の承継に頼っているから、取り残される家庭も出てくる。

 

なんだか殺伐としてきたが、関係も時代と文化によりけりというのを読んでいると、名前が付いた関係で関係するのも何か違うよなって。

 

何故土地とか場所に価値があるとされているのかということを考えると、人類が土地を開墾して人間の場所を創ってきたからなのだろうなということから、関係という場所の価値にも繋がる。

 

人間とはむつかしいものだ。

 

諸々思索の鍋がある。僕のアイデンティティはここに在るから、誰かから名前が付けられるところにはないみたい。エゴとか自意識とかもほんとは当たり前でなくて、導入された分け方というかメディアみたいなものだが、インストールされた当たり前を拭うのはとても難しい。欲求とか、発達とか、統合とか、

 

僕は何かのバグでもともとインストールが甘かったのかも。

争い嫌いだし場所が取れない。

 

 

抽象的なのが続いてもアレだから、具体的な疑問。

いや、これも書くとなぁ。なんでそれを当たり前とできるのだということが世の中には多すぎる。

 

人(世界)は自分の予測を越えうるくらいでないか、当たり前として良いこと。

 

はばかられるという感覚があるのは、一応当たり前の情報もあるということか。

そうそう、こういう奴だったわ。

 

ふと思い出したのが、母方の祖母宅からの車の道中、母親がヒステリーを起こし、このまま退場云々で、やたらとスピードを出したり戻したりする。今想えばこのヒステリーもポーズでしかないのだが、僕は一生懸命怖がることにした。一緒に乗っていた妹が、「お兄、あの時無茶苦茶怖がっていたよね」と言う。しめしめ。コントロールされている風に過ごした思春期。

 

その後、もっと自由になるかと思ったらそうでもなかった人生の道中。

色々あったな。

 

今はとても幸せと名付けて良い。

自由は何事にも依拠できないということで、もはや後戻りもできない。でも、これで良かった。

 

ポーズを取らなくても良い人とだけ関係すれば良いし当たり前の文化も知らない。

 

思索が不謹慎な領域に入っているからあまり書けなかった。

 

人をコントロールしようとする情報ってほとんど胡散臭い。まぁ情報のほとんどがそういう風に加工されているものであって、だから「知らなくても良いことがある」みたいな発想が起こるのか。

一次情報なら人を統御するようなものではないから、影響を受けるかどうかは自分次第。

 

 

はい、おやすみなさい。

 

何はともあれ楽しんで生きていますように。