言葉の不可思議

 

 

湿度が高く雨も降り気温も割と高い、体調が悪くなりそうな1日。個人的にはあまり気にならないが。肉は肉。

 

さておき。

 

ぼーっとしていたら、おしゃれな先輩も足もとがちょうど目に入った。ミュール(と呼べるのか知らないが太目のヒールがついた、若干もこついた靴)のつま先辺りの部分から、猫なのか犬なのか何かのキャラクターの顔が覗く。なるほど、ああいう靴下ってそういう靴に合わせるのか。かわいらしやと思った。思っただけで自分の中だけに留めたが。書いている通り、おしゃれな先輩はおそらく一般的な意味ではおしゃれではないが、自分の好きな服を着ているという意志に対しておしゃれと呼んでいる。

 

たしかに、現実的な世界の発言って、意味が伴うからあんまり言語を全開示できない。たぶん、恋人さんに対しても自分が気付いたことを言ってこなかった。というか、疎いキャラ付けをされていたからそのキャラを演じるためにあえて目を閉じなきゃならない。人ってやっぱり何処かは誰かより優位である人と現実的関係を保つ。保たなくても良い関係であればなおさら見なくて(気付かなくても良いし)。

 

という意味では、インターネット世界は僕が自由な存在で居られる場なのか。てらいもなく好意や気付いたことが書ける。おしゃれな先輩の中身はきっと面白い(きつめだとは思う)のだろうが、これをするためには近くならなくてはいけないし、近くなるということは、、、となると、そこまで時間を使えないし。どんな立場でって、そりゃあこの人生物語の唯一の主人公です、となる。絶対価値の話であって相対ではない、念のため。絶対価値というのは、この人生においてはこの自我しかないという意味であり相対価値は相手にとって自分に価値があるかどうか。後者ではもちろんそんなものはない。

 

素の僕は実は陽気である説まである。

 

昼ご飯を休憩室で食べ、煙草を吸いに行くときにいつも立ち読みしている男性の後ろ姿を見かけた。実際にそうなのかは問題ではなく、僕が考えたのは、この後ろ姿でも特定できるためには、何か背景情報が取得されていて、このなんとなく取得している風景の情報ってまさに「ふんわりした直感」よなと思った。体験でもないくせに忘れていない何か。

 

続けて、そう考えていくと自分に収納されているものって自分でも把握しきれない、だとしたら自分が把握している自分とは何ぞやとなる。言葉のふんわり性はこの辺りにあって、「自分」って語義的には物理的には個体に近いものだが、立ち止まってみると、アイデンティティとか、歴史とかも含まれている。結局は語用によって意味が変わるものだから、言葉の意味なんて、知っていたところで何の使い道もないし、日本語がさっぱり分からないというのはこういう意味。

 

やれやれ。

 

英語の話。試験問題で読んだときだいたい文意は読み取れるのだが、問題の答えに辿りつく核心がとれないなとなって、あぁこれって高校時代の全盛期と同じくらいだわと思った。それでもセンター試験は6割くらい取れたのだが、なんとももどかしい。ということで、新しい本を帰りに買った。結局僕が日本語を読めるのは読んだ文のストックが多いからであって、別に文法を知っているからではない。ということは読めるためには読むしかない。日本語の文法もあんまり分かっていなくて、なんとなくリズムで書いているだけ。僕にとって言葉はそんなもので、この文章の品詞はこれこれで、みたいなことは考えていない。

 

印象は感じで、感じも結局はストックの話よな。味覚を鋭くさせるためには、色んな味を知って、その中で好きな味を見つけないといけない。文章の中の不可視の部分を感じるのも、その文は人が作っているという当たり前からの逆算。言っていることと感情が違うのは対面していたら察知できることだが、そういったことは当然文章にもありうる。なんでそのエピソードを選んだのか、あえてなんでそこでその単語を選んだのか、みたいな。これは言葉の意味の話ではない。

 

日本語の文章がきっちり読み取れるなんてまだまだ先のことだが、多言語も並行した方がいい。文法書はまぁそうなのだろうなとは思うが、数式じゃないのだから、きっちり文法を使って書かれた文章ってそんなにあるのだろうか。きっちりしている文章が読みやすいわけでもなく。

 

(僕の文章が読みやすいとすれば、言葉がさっぱり分からないものだと分かっているから。こう書けば通じるだろうという無駄な共感投げやりがない。)

 

言語はとても奥深い。

 

 

あと、久々に啓発本を買ってしまった。啓発本が個人的に低評価なのはポジティブに書かれ過ぎているし、個人体験を一般化しているような節があるからだが、買った本はちょっと違うようだ。

 

本を一度読んだだけで忘れなくなるという本。僕は本を繰り返して読むのは好きだから、あんまり要らないと思いながら、おべんきょ方面では時短できるかなと思い買った。立ち読みしたときに、「脳は言葉が好きではない」というフレーズがあって、うん、たしかにと思って。

 

僕は言葉が好きだが脳が好きではないというのは実感としてある。言葉を読んでいても上滑りするだけで何も頭に入ってこないということは多々あるし、脳のコンディションが整っていないと言葉はあんまり読めないって個人的には当たり前のこと。コンディション整ってなくても読める文章はきっと読み流して情報しか取っていない。

 

文字だけ追うのは残らないというのは、おべんきょとしては絶望だが、読書家として希望というか人生の醍醐味感はある。味わい的な意味で。まぁ小説は読んでいたら勝手にイメージとして残っているから、1回読めばあらすじくらいは書き起こせる。

 

忘れないというはこの延長にあるらしく、情報をイメージ化とシンボル化と関係性でスキーマにするということらしい。スキーマというのは、ある具体的な対象に対する概念情報みたいなもので、パンダは竹林に住んでいる、まるまるとしている、笹を食べるとかいったもの。

 

こういう記憶方法はエピソード記憶というらしく、これだとすぐ再現できるとか。確かに、ここに収納されたものは、言語化するときは言い換え可能。要は、情報を体験として読めば良いのかとなったが、現象学の本は言葉が抽象的過ぎてイメージ化さえできないから本によりけりなのだろうが。

 

ここで思ったのは、こういうインプットの方法論って、自分が何をインプットしているのかの逆算になるよなということ。自分が通ってきたことの、何を覚えていて何を忘れているか。

 

僕としては、見たことはだいたい残っているから残っていないということは恣意的に残さないようにしていたという節。残さないということは過去にならない。

 

暫定的結論。小説も専門書も一緒なのかもしれない。

 

では。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。