もう少し

 

 

なんとなく冬の残り香がある1日。

 

晴れて居なくても出かけて良かったが、なんとなく場所を吟味することにした。人工的に馴らされた自然公園ではなく「海辺のカフカ」のカフカ少年が分け入った森みたいなのところがベストなのだが、行こうとすると交通の便が無さげ。

 

行ったことがない所に分け入りたいのは、外界に対する感覚が研ぎ澄まされるからだろうなという感じ。だったら、名前が付いている自然ではなくてきとーに電車に乗って目に付くところに停まれば良いのか。無性に京都の恵文社に呼ばれている気もする。シュールレアリスム吉本隆明の本がありそうな予感。たしかこの前はヘーゲル精神現象学だった。

 

劇評の1本目を書くことになった作品を観た後に寄ったのだったかな。当時はまだ恋人さんが居たのか。「ひたむきな星屑」。あぁあの方出演していたなそういえば。お話としては、都市開発のエアポケットみたいな街のパーキングエリアの中での生活風景。粘度がある液体と舞台の真ん中に浮かぶ島。青とか赤とか色が付いた人が出てきていたような。人は色彩を持っている。

 

本屋に逢いに行ってみてそこからはノープランという明日にしよう。

 

 

演劇と法律の相似を思い付いたがひとまずニッキ。

 

本日したことと言えば、もぞもぞ(隠語)、朝ごはんはレトルトキーマカレーゼノギアスの鬼畜プレイの実況を見つつ、漫画と本を読み、アリのアプリを進め、昼ご飯は納豆ご飯、この辺りで洗濯をし、夕方に買い出しに行くついでに母親からの着信に折り返し、今はトンテキを作って食べている。

 

母親はほんと普通の人。同じ階層で生きるのは辞めることにする。見下す訳でもないし尊重はしているが、ただ、同じところのものさしで生きないというだけ。例えば、他人の存在を直に接している間にしか感得しないというか、物的に接することが大事だというものさし。分かり易くて良い指標だが、僕は「ここ」で人の存在を見ていないみたい。

 

まずもって、「ここ」で見るのに精神的な近さが影響するということが分からない。「ここ」だったらよく通うスーパーとかコンビニの定員さんも等しく近い存在ではないか。生活空間に居る人だし。なんとなく名前と顔くらいは把握している。でも、相手からは把握されてない。煙草の銘柄珍しいし、いつも2箱買うのだから認知されていても良いのになと思わなくもないが、キャパと言うより意識の話。仕事が微々楽になるというところと、いちいち人を認知するという記憶領域で天秤にかければ、仕事を楽にする必要はないということになる。

 

僕は覚えられてないことに怒りなぞ抱くべくもないが、コンビニでバイトしている頃、バーみたいにいつものと言ったらいつもの銘柄とか新聞が出てくるみたいな輩が多数いらっしゃる。バーは空間料金も支払っているから、覚えていて然るべくと思うが、コンビニ店員にそれを求めるのは追加料金が必要だと思う。こういう人の世界観どうなっているのだろうな。自分が知らない相手に自分のことを知って貰えて当たり前という不均衡。お客様は神様精神か。

 

人のことを人として見てない人が人として見られることなんてないのに。

 

 

あぁ、あと、進捗としては、テキストエディタとしてメモ帳は使い勝手が悪いみたいだから、python用に別のをインストール。たしかにシンプルだし、()の左側を打てば右側を勝手に補完してくれるしpyファイルでも保存できる。ただ、また仮想マシンの中で動かない。英文のエラーメッセージもなんとなく把握できてきて、ファイルが見つからないと言ってきている時点で、中に書き込んだテキストまで届いていない。

 

(人とやり取りしているようで楽しい)

 

 

やれやれ。

 

海辺のカフカ」は変に唾が溜まってくるグロテスクなシーンが終わった。淡々と並んでいく猫の首が生生し過ぎる。ただ、儀礼として決まっているというというジョニーウォーカーの台詞からすれば、決まっていれば人間は軽々にこういうことをできる存在なのだよな。例えば戦争だとか言っていた。これって原初では生贄みたいなもの。

 

世界の最新情報は全然追っていないのに、ちょうど良いタイミングで本がやってくる。

 

別にインターネット世界に逃げてきたわけでもないし、テレビを見ないのは必要でないから。自分に統御できない事象に心を揺らがせていると自分で生きられない。体感の感じは生生しいがほとんどは経験則からの警告(ブレーキ)だったりするのではという感じ。厳密な意味で肉体の体感ではない。

 

演劇とかけて、法律ととく。その心は、どちらも舞台の上での演技。

 

舞台上には作法があって、その作法で振る舞えるかどうかで判断される。

要は、どちらも主導的に世界を構築するものではないということ。完全に主導で自律だったら誰にも見られる必要はない。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。