非常識

 

 

あと1日出勤すれば三連休という意味でもう木曜日。あと1日は平日時間で帰宅後に作業が進められるという意味でまだ木曜日。天秤の真ん中にはもう1回は決して無い、最後のただの木曜日。

 

本日は母親の誕生日(2回は確認した)だったため、やっつけ仕事でLINEのメッセージを送る。誕生日とか記念日の感覚が馴染めないのは、日の移ろいに対する素朴な感覚がどうもずれているから。大事だったら毎日大事に想えば良い訳で、記号的な1日を問題にしなくてもとか、我ながら細かい。

 

移ろいに対する意識って、日本人は比較的に鋭い方なのかもしれない。外国の人には虫の声が生活音にしか聞こえないという話を何処かで読んだ。それに気候としても、四季がある(天災もある)から、雨季と乾季しかないとか年中一定の土地に住んでいるよりはきっと意識される。これは「絵の言葉」の話からなのだが、砂漠の世界ではすることがないから仕事(作業)をしているというエピソードとか、日本は島国で他国から攻め込まれないから異文化を消化して保つような余裕があったとか。

 

なかなかのほほんと過ごせる国らしい。のほほんさが外を意識する余裕を生む。徒然草とかもそうか。最近は内向きの創作が多いのかもしれない。あぁ、あの演劇の連作も明らかに外が意識されているから面白いのか。

 

なんにせよ、良い国に生まれたものだ。

 

 

帰宅後。

 

クローニングはやっと完全に準備が整った。仮想マシンの中でPythonのファイルを動かすという、書いていても意味が分からないことができた。Hello,Python! とテキストが表示されたとき思わずガッツポーズ。メモ帳がpyファイルで保存できないからコマンドプロンプトでファイル形式を変えてなんとかなった。うん、理解は全く追い付いてはいない。

 

30分残業があったのになかなかやりおる。

 

そうして、お風呂読書(道後温泉の入浴剤)が終わってシャワーを浴びていると、「こんな星の夜は・・・」という歌詞が浮かんでくる。ようつべ先生に聞いてみるとエルレガーデンスターフィッシュだった。何話そうかな。

 

何故か今はスカパラが流れている。「海辺のカフカ」でのドライブのBGMはシューベルトだったか。

 

さておき。

 

昨日筆が進まなかったのは、「言語の垂れ流し」の意味をどう扱うかというところが引っかかっていたから。一般的な意味合いにおける「読まれたい」という衝動をもって書いている訳でもないし、言語で自己表現ができるという志向もないし、置き所をどうしようかなと。

 

何やら読んでくれている人も複数人いらっしゃるようだが、ここを交換的に捉えるのも素朴とは違う。読んで何かを感じていただければ嬉しいことだし、楽しみにしていただいているとすればありがたいことだが、あくまでここは結果であって、原因にしてはならないと想う。

 

言葉の置き所。

 

僕は言葉が好きだし、言葉でしか表現され得ないものはある(自己表現とは別に)と捉えているが、ウィトゲンシュタインさんとか一般的な感覚みたいな、言葉の事実性・現実性をあまり信じていない。

 

言葉で固定される前に在るものが大事。言葉に括ることはあくまで整理整頓のようなことであって、発された言葉が全てではないし、自他方向でそのまま受け取る必要もない。

 

厳密には整理整頓というより、語彙は挙動の可動域みたいな意味合いか。

自分の感じがある言葉に当たる(参照できる)という分類が語彙であって、外にそう振る舞えることでもあるという二重構造。

 

むかーし、関わっていた人が、人の本当は言葉と行動が一致することだ言っていた。たしかに人間関係で言えば、信頼できる人物としての本当ではある。ただ、これが当人の存在の本質かというと、微妙な感じ。

 

まぁ、なんというか、言葉に対して高尚であるという畏れ多さは持たなくても良いし、本当と取られてもなんの問題もないから、無軌道で気が向くままで良かろうなと身軽になったということ。もともとある段階からそうだった気がするが、きちんと気付いたという自覚が大事。

 

やれやれ。

 

ちょっと学問の話。

 

結構全方面に手を出しているのだが、文学ってほとんど追ってないことに気付く。手を出すような縁があったから、今週末にうろつくついでにシュールレアリスムの本を見つけることにした。哲学としての文学(言語学)は自然と読んでいるが、きちんとした文学の体系は読んでいなかった。

 

さらに身軽に法学談義。

 

法律って知らない人から見れば、かなりかたっ苦しい暗記物のこういうケースはこうだという問答集みたいなイメージだと思われる。僕も最近までそんな感じだった。ただ、法律の本質は抽象的な世界におけるルールなのかなとしてみたところ、随分と気楽に読めるようになる。

 

登場人物は抽象化された人であったり、物であったり、機関だったりする。

 

ここにおける人は合理的に判断できる抽象的な一般人であって、具体的な個人とは乖離しているのだが、離れたままだと現実の具体的な争いを裁判できないから、人とはこうあるべきだという価値的なルールを持ってくる。これが常識人だという仮説。

 

法律学では一般的な意志という語用ではなく、意思という言葉を当てる。ここの常識がずっと腑に落ちなかったのだが、要は、これこれの事実を認識していたら人はこういう行動を取るだろうということだった。これは起こった現象から逆算もされる。

 

例えば、交通事故を起こした時の過失も、具体的な事象において、運転者はこの速度で運行していたら事故を起こしうると認識すべきで、認識していれば速度を落とすべきだったみたいな判断とか、刑法の犯罪もそう。

 

日常を規定する民法についても、かなり高度な認識をできる抽象的な一般人が想定されているように想う。意思表示は、自分がどういった権利を得て義務を負うかを認識して、それを欲することを表示するということになっている。もちろん、スーパーで商品を買う時にはこれを買います、はい、売ります、で終わるから抽象化する必要はない。

 

自然と無意識にこなされている常識的な現実を言語しているのが法律。問題になるのは境界領域で常識が通じないようなところだから、人によって評価が変わるのも当たり前。

 

僕の素朴な常識というか当たり前観で言うと、認識(知っているかどうか)によって人の行動が規定されるということは必ずしもなくて、もっと無軌道な存在なのではという感じだから、我ながら非常識だよなぁと想う。

 

遅くなってきたのでここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。