脱皮

 

 

行きは晴れ、帰りは雨(すぐ止んだ)。

 

フェーズが変わったと言われた。たしかに言語化する枠は拡がったのかもしれない。別に世の中がこうあるべきみたいな思想は無いが、人間的な人間というのは、一般的なところでいう「人間力」を持っている人でもない気はする。世の中もより良いはあっても、善いはないような気がする。より酔いはあるかも。

 

取り留めないな。

 

本日昼休憩に家賃を振込にコンビニに行くときの横断歩道で信号待ちをしていると何か思い付く。信号待ちは思索にちょうど良い時間。

 

なにやら自分の目に入る世界に都度言葉を当てていることに気付き、「いちいち言葉をあてがわない」というフレーズ。たしかに、言語化するのは後からいくらでもできるし、ちゃんと世界を生きる方が大事だなと。これ、きっと本を読むときにもそう。

 

仕事はなんとなくいとまがない。もっと切れ目なく過ごせということなのか。これが基本給アップと釣り合っているかは微妙なところとしても。でも、天秤の片方に一般的指標を置かないということにするのはとても良さげ。色んなことが目に入らなくなりそうだが、目に入れなくても良いことも入れてしまっているのが今だし。無理はしないが余力は残さないという感じ。

 

 

そういえば、Pythonの方も1日1頁は進んでいる。やっとこさ、「動かしている」という手応えが出てきた。今は任意のWebサイトから文字コードを抽出するみたいなところ。サンプルに自分のサイトを使えるのも良き。おそらくここから、有意な情報だけ取集するということになるのだろうなという予測。例えばサイトの個別の記事にある画像のみを保存するとかできるようになるのでは(是非ともそれをしたいサイトがある)。

 

経験則に対してなんとなく否定派なのは、ただ生きていれば経験が募るみたいな受動性での方。職業とか生活上とか。ただ、自発的に動いて得た体感という意味の経験則は肯定派。こういう意味で動いてなんぼ。まぁ、動かされた中でも抽出されるものはあるが、必要に迫られたことって、あんまり応用が利かないような感じ(経験則)。

 

あぁ、いちいち言葉をあてがわないという世界の捉え方の話。

 

細密な語彙があれば世界描写は言語でやっても生きたままに近くなるだろうが、どこまでいっても一致はしない。だいたいは要約すらできず、こんな1日だというラベルが貼られることになる。このラベルは感情の起伏の影響が強くて、ありのままの世界ではなく感情の色(固定観念)付きのものとして記録される。

 

感情が大事ではないとは言わないけれど、感情は物事を捉える感覚器官としては偏狭だ。

あくまで受動的な起伏だし。

 

 

シュールレアリスムの先生が、この思想はありのままの自然としての視覚から離れるために用いられたというお話をしてくれた。見たままを書き込もうとしても、人は無意識に見たいものを取捨選択しているから、この意味でのありのままの自然から離れて、可能的に見えるもの全てを見る試み。

 

割と実践しているから、なんとなく分かる。表現するまではいかないとしても、自分がふと見る視界の中で、何が見えているのかをフラットに点検する。歩行だと情報量が凄い。この前の京都だと、どういう意図でこういうところに住んでいるのだろうとか、とても気になる。

 

電車の車窓だと流れゆくのが早いからピンポイントに見たいところを見ていて、植物ももちろん。特定の時空で人が営む生活風景がとても好き。人が歩いているところとか、家のカタチとか。

 

 

こういうのは文字を当てられない自分のものなのだが、文字を読むときにもそれをして良いのだなという感じ。というか、もともとの僕はこういう風に教科書を読んでいた節がある。

 

どういう文字が綴られているかという画像とは別に、そこに書かれている意味を脳内で解凍した像があるから、その像が何なのかを読む。ここが読み取っている意味の世界であって、単に文字を追っている訳ではない。分かり易い文体とか知らない。

 

ここが無理なく展開できる文章が僕にとって美味しい。

だから、名言とか全然残っていない。詩を読むのは嗅覚らしいからそこも磨かねば。

 

なんか検閲かかっている訳でもないのに文字数少ないな。

 

まぁ良いか。楽しかったし。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。