自然(暴力)

 

 

 

行きは雨、帰りは晴れ。

 

 

昨日書いた、「自己検閲」という単語が思いのほか自分の中にあるフィルターを可視化させてくる。芸術の中の空気として自然とか現実はともかく、自己の思考をせき止めるものは無数にある。もちろん周りの空気も然り。

 

食後の一服のとき、何処からか「配慮」という単語がやってきて、一頻り思索する。昨日のニズムもそう、社会や制度上の配慮は、何をもってどこまですべきかというがとても難しい。ちやほやするというか優遇する、甘やかすことって、配慮という名の保護であって、保護されるということはその分自由が狭まるということ。尊重という配慮と同じような語用で扱われているような感じがある。

 

蔑視があるのだという主張も視点によってはありうべきだが、社会に参戦するのは果たして権利なのか義務なのか。フラットに見ると、じんわり社会的価値として重く捉えられていると思われるが、何に価値を置くか次第のシーソーゲーム。

 

裁判、特に憲法訴訟でも、配慮という言葉が良く出てくるようになった。ここでの配慮は第三者目線から見て、ある利益と別の利益のどちらに振れるのかという基準を設定する際に考慮要素だから趣が違う。

 

裁判所が制度を変更することによる行政コストを加味すべきかどうかも微妙なところ。夫婦別姓とか同性婚とか、制度変更の整備にかかる公的な費用は税金が使われる訳で、それは内閣とか国会でなんとかする、要は選挙で決める事柄のような気もする。ただ、多数派の得票を得る人が国会議員になって法律(制度)を作るのだから、マイノリティの保護にかかずらっていられないのだろうなという感じもあり。

 

ただ、社会の最低限の制度として、外から見て分かり易い基準をもって設定することがもっともコストがかからないし、制度化するより道徳化してやんわり促す方が楽なのだろうな。

 

多様性を社会制度として承認したとしても、どこまでの多様性が社会として認められるべきかは決まらない。例えばストレス耐性低いとか繊細さんとかを認めるとしても、どうやって組み込むのか、階級を作るのかとなると、むしろ一律に承認することから離れていく。あと、昨日の「海辺のカフカ」の男女共用トイレの問題が、別にしたら解決するのかというとそうでもなく。同性に性的嗜好をもった人は実際存在している訳で、ここでいう安心感も傾向というか外観からの分かり易さな訳で。

 

社会的な配慮は足すというよりはどこまでが最低限かという話だと思う。足されていく国家は保護に厚くなる分、自由は減っていくし。自分の自由の領域でないから問題ないとか思っているうちに自分の自由も譲らないといけなくなってくるという融通がきかないのが団体行動の極致である国家。

 

何か変な蛇口が開いている。普段書いていないだけで、こういう方向にも思索は在る。

 

社会上の配慮はこういう最低限を考えていけば良いとして、個人の生活上の配慮(すべきこと)って無限よなぁと途方もなくなったのが本筋。される側ではなくする側の方。行動を変更するかどうかになる情報自体が無数だし、ここまで良いと決められる指標がない。

 

完全に配慮するのでれば、ほんとは何も表現しない、行動しない方が良い。なるほど、僕の希死念慮はここ由来なのか。あんまり人に影響したくない人生だった。自分に価値が無いではなく、害をなす存在であるという感じ。自己検閲も基本的にここからか。

 

たまたま立ち読みした本で、このご時世は「人と会うこと」が暴力であるということを可視化させたというフレーズがあった。なんだかわかるというかずっと感じていたことではあった。ここで言っているのは衛生的な面だろうが、会うこと=相手の時間を奪うこと。僕はここでは時間が奪われているという感があったのだが、自分で決めていないという観念があったから。単に嫌ななものは断れば良いのだが、バランスが悪い。

 

衛生的な面で言っても、ほんとに会いたければ会えば良いと思っている。他責にせずに。ただ、この文脈で言うと逆で、僕はその人の暴力にさらされても良い(選んでいるから)が、相手を僕という存在の暴力にさらしたいかとなると、いや無しちゃうか、ということになる。僕の肉体では免疫力やらなんやらで顕現していないだけで、リスクがない訳はないし。これは打っても打たなくても対して変わりないと思っているが、別の話。

 

なんだか暴力性と書くと物理力みたいなニュアンスで語義として合っていない。衛生的なところは確かに物理だが、今まではここまで意識されていなかったとなると、物理と非物理の境界も曖昧。言葉でも人は傷付くが、言葉の暴力は物理と非物理のどちらか。それに暴力と書くと犯罪的なニュアンスになる。性病に感染させることが暴行罪になるという大昔の裁判もあるのだが、ともかく、字面がよろしくない。

 

素の感覚だと、ここは「相手を変更しうること」というのがそぐう。変化よりももっと方向がない感じ。変更の概念には暴力による作用もあるだろうし、精神的な攻撃も含む。もちろん善き方向というのもあるかもしれないが、そもそも善いという観念を持ち合わせていないから不問。

 

場所は取らなくても関われば僕の作用によって相手は変更される。影響までは行かなくても、僕が居る世界線と居ない世界線では微差であってもズレる。この僅かなズレすらも変更と捉えるのであれば、自己の存在は(もとの言葉に戻して)暴力的であると言える。

 

こういう意味で今度の段階は、この自分と存在の暴力性をどう扱うかになる。

赦してしまうというのもあり。文章ではほぼ垂れ流しを赦しているのだから、生身でも自分で在って良いとしてしまう。

 

世界を楽しめるというのも一種の暴力ではありそうだが、、、

 

素朴に生きるとなんだか鋭利になりそうだが、その棘に激突してくる人はしょうがないとできるのかどうか。緩いところは緩いと思う。自分の為に人を使ったり傷つけたりするつもりはないし。

 

検閲は空気を読んでしまうところも大きい。

 

こうやって可視化するだけで、世界は随分と変更される。

僕は自分に行使される暴力性については歓迎している。ただ、僕の為とか前置きしてくるのは素直でなくて駄目。あくまで自分がそうしたいということでないと。

 

なんの話かわからなくなってきたが、自然自体がこういう意味では暴力に溢れている。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

(書いているうちに夢のニュアンスが変わってきている気がしているのはともかく)