誰かの置き石

 

 

 

何やら甘酸っぱい気持ちで目が覚めた。

夢が何も啓示してくれなくなっている。

 

 

何やら、誰かに告白されるシーン。立会人を呼ばれたのだが、夢の中の僕が好きなのは呼ばれた人の方だった。そこからアルコールなしで意識が飛ぶ(夢の中で意識が飛ぶってなかなない)。

 

見知らぬベッドから窓を通して朝の空が見える。同じく好きな人も目覚めるのだが、面白いのがその人は別のベッドで寝ていて、何某かの形跡もないところ。どうやら好きな人の部屋らしい。意識が飛んでいた間のことはぼんやりとしか語られない(「海辺のカフカ」に夢の中に責任が生じるというフレーズがあったような)。最終的に好きな人の方に告白したようなのだが、僕は一度逃げ出したらしい。ガクガク震えていたと言われる。それで同じ部屋で寝ているというのはどういうことなのだ。

 

部屋全体がなんだか埃っぽい。まぁ僕の部屋も人の事言えないし、気にならない。着替えることになって替えのTシャツを渡してくれるのだが、なかなかユニークな趣味だった。10周年、にゃーん、という文字と、何かの顔文字が全体にプリントされている。

 

その後、何かのオリエンテーションのシーンに飛ぶ。傾斜を下って、何かの草の茎を11本集めるとのことで、9本まで数えたところで妨害されてイライラしていると、好きな人に怒りっぽいのが〇(名前1文字)だと言われ、こういう評価も悪くないなと思ったのだった。

 

というところで目覚め。

この非接触の夢で甘酸っぱい気持ちになるとは自分が良くわからないが、そうなったのだから仕方がない。

 

最近夢の話書いてなかったなと思い、少し趣を変えてみた冒頭。

もちろん非現実なので現実の僕の人格とは連動していない、はず。

 

さておき。

 

仕事では余力を切り詰めるという試行を始めた。その分他の人の仕事が減ったとしても、まぁ、申し訳ねぇなと。もともと1人でさばき切ることができる量でもないし、どれだけ詰めても余剰はどうあっても起こるからそこを気にしなくても良い。あんまり暇なのもしんどいかなと気になる節はなくもないが。これを開示したら絶対考え過ぎだと言われるが、見えるものを見てないようにすることはできない。振る舞うことはできても。

 

(仕事時間は切り詰めるが、その分なるべく定時で終わるように調整したいところ)

 

急いで帰って、アリのアプリをしながら、コマンドプロンプトteratermとVisualなんとかをなんとかカタカタ。サンプルで解説本の出版会社のサイトに載っている本のタイトルを抜き出すところまできた。 なんとなく何を意図しているかは分かるが、応用するまではまだまだ。

 

一瞬もぞもぞし、ご飯を作る。帰ってきて手を洗うついでに下味をつけておいた生姜焼きが美味しい。あと、新玉ねぎのオリーブオイル漬けは横着して塩を多めにしてしまったものだだから、単体で食べるより納豆にかけた方が丁度良くなる。

 

その後、お風呂で読書をし、今に至る。法律学の本の山は試験が近くなってきたからそれ用にセレクト。この群を文字を読まずに何が書かれているか追うようにできるようにしたいところ。文字の学問と思わせて概念の学問だし。

 

もう1つの山は、完全に趣味の領域。「絵の言葉」は絵に含まれる文法をテーマにした対談で、今は世界の中の美人の定義とはという話になっている。ディズニーの白雪姫の鼻が低いことに対して、無い物ねだりだっていう評だが、これってアレじゃないのか(用語忘れた、表現の標準化みたいなやつ)。「死に至る病」(2周目)、「社会人類学」と続く。諸々の部族の結婚制度が語られていて、どこに行っても様式なのだなという感じ。

 

哲学的な意味での実在(「もの」)とは、カントの判断力批判の解説本、会計学入門、行動経済学、租税法(法律学というより趣味本)、数学、統計学(2冊)、日本史、「性愛と資本主義」、物理学再入門、IP、てきとーになってきた。趣味が雑(食的な意味で)。

 

ピックアップして。

 

シュールレアリスムの本で、ダリが美について、美とは食べられるものだと評したのだとかというフレーズが出てきた。ダリ展があれば参じたいところ。食べ物を書くことによって美を暗示するみたいな手法なのか、原典に当たらないと分からないが、たしかに味覚と美感はよく似ている。違いは満腹の幸福感とセットではないこと。

 

美学の本に、「共通感覚」という話。五感に根差しているようで、離れているような感じ。これも味覚と似ているよなと繋がる。アリストテレス由来というのだから、歴史がある。

 

 

やれやれ。

 

そういえば、ここからが短い本題なのだが、日記が面白いと言われた。なんだか存在自体が面白いと言われているような感じだがともかく。面白く読まれているのであればそれで良い。

 

日記を書く意図があるように読まれているみたいだったのだが、そんなもの何かあったかしら。最初は文章の訓練みたいな趣とか、誰か自分に似た人をサーチするみたいな試みがあったはずだが、今は昔、特に何もない。面白く読まれたいということもない。面白いかどうかは結果であって原因ではないし。

 

強いて言うなら癖みたいなものなのだろう。

習慣はおそらく止めたらむずむずするだろうが、癖は気付いた上でやめようとすれば止めることができる。

 

哲学少女の言で、僕の余剰である日記を読むことで寄りかかっているというフレーズがあった。軽いし問題ないのだが、こういう文脈で僕の文章を読んでいる人って何人か居るのではという発想。別に誰も救わないし、たぶん癒しもしないが、定時にいつも居る存在(文体)みたいな。

 

その為に文章を書くことはない(交換になると途端に気が滅入る)けれども、こんな文章でも書いている意義はあるのかもなと。スキがあるよりそういう気配のが栄養分にはなりうる。

 

(個人的には僕の文章なぞよく読み続けられるなと思っておりますが)。

 

はい、メタはこの辺で。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。