ただの個人的物語

 

 

論理は意味と意味を繋ぐ道筋。理由は結果と原因を繋げる後付け。

 

 

ただの仕事の楽しき1日。道中の公園では鯉のぼりが泳いで、無秩序に咲き乱れるつつじらしき花。つつじって街路樹、花? として丁度良いのか、至るところに予定調和として植わっている。個人的にはあのカラフルさがどこから来ているのか(pH?)が気になるところ。花と言えば、一昨日海岸線を歩いている時に見かけた藤の花の一色の慎ましさが好ましい。

 

 

明日は有給を取ったので休み。たぶんそろそろお役所に行く用事があり、どこでも良いいから1日、と申請した。この1日が誕生日だったらもっと凄い移動になりそうだったが、同期が先に休みの椅子を取っていた。同期め。まぁ別に微動が悪いということでもない。なんでも良い。

 

同期とは個人的な世界線が交わることはない。あと、新人さん2人も何か変な感じがある。先生(上司)を搾取しているわぁという味? でも、この職場自体がそういう場所なのかもしれないと感じなくもない。流れてきたものを留めようとしない、みたいな。

 

僕は人に色は見えない。一瞬スピリチュアル系の本でオーラが見えるようになる方法をやってみて一瞬で挫折した。ただ、オーラが見えなくても感度を高めれば、相手が自分にとってどういった存在なのかというのは、経験ではなく本能が捉えているのでは。オーラなんて色が付いていたら相手が鮮明に見えなくて困る。挫折して良かった(笑)。

 

 

さておき。

 

組成がまた変わったここ2、3日辺りで、あまりにてきとーに世界を流してきた自分に気付いた。もっと真剣に生きたい衝動。ここでいう真剣は集中でもなく、真面目でもない。集中はある一点に神経を集中させることで、もっと注意はばらける。ばらけないと自然な思索が出てこない。真面目は外からの規範(ルール)と自分の行動の相対であって、仕事では評価されるしすべきだが、人生劇場の中では意味を持たない。

 

真剣であることは、根拠とか意志という前置きではなく、もっと遊ぶこと。

遊びの本質は哲学書に譲りたいところだが、おそらく、無我とか瞑想の境地とも隣人の概念。

 

端的に言えば、対象に序列を付けないということで、捉える世界に貴賤は無い。

例えば、法律学とビールは同じこと。

 

この辺り感覚的な部分だから、説明するのがとても難しい。

時空の枠を取っ払うと、概念の枠も取っ払われるという組成の変化というか、もともと僕はそうしたかった節があり、この日記が水を得た魚みたいな場になっている。

 

「多崎つくる」で、灰田君が思考の高回転のギアを持っていて、自分に合わすためにローギアにしてくれているという描写があった。これを現実で表わすと反感を買う。ここではもうバレているはずとして。僕は、まだ全然自分の考えが足りないとしている。真剣に生きたい衝動というのは、外から来ている枠からもっと自由になること。もっとギアが回るはず。

 

昨日の某漫画みたいになっているが、自分の限度ってそもそも自分が決めたものではない。

 

 

やれやれ。

 

という感じで、この日記の場は僕の自由になってきている。

時系列も因果も問題にならない。人間のそもそもってそういうもの。

 

「共通感覚論」で、分裂症の人の症例を研究した人が、人は「もの」ではなく「こと」なのではないかと書いていた。僕は人の「もの」性を譲らないが、「こと」と捉えるのは常識的感覚として分かる。物事って感覚として手触りがあって現実的。自分を「こと」とすることによって、付着している共通感覚を現実と捉える感じ。「もの」が存在しているのは肉体的に感知できるとこではないから、これを主軸とするとても面倒だし、現実感が揺らいでしまう。

 

ものが住まうのは現実界ではなく可能界。

 

「性愛と資本主義」で、原始宗教が偶像崇拝を禁じたのは、名付けによって観念としての可能(もの)から現実(こと)になることによって神性が揺らいでしまうという話もある。

 

名前=言葉の「こと」性って人の心まで規定している。

だからこそ、人は不自由をネタ(糧)として求める。

 

疲れるという言葉は、人を現実に疲れさすし、因果として連動している語用感。

僕はたぶん、こういう風にしか言葉を扱えない人と関係できない。

 

 

なんだろうな、僕にとって言葉は「こと」ではないから、発した言葉についてどういう意味なんですかと聞かれても一瞬では堪えられない。論理でも理由でもないし。

 

 

(なんだかすごくヒトカラ行きたい気分)

 

 

そうそう、もっとも推しの詩人をシュールレアリスムの本の中で見つけた。詩集欲しい。

左川ちかさんという方なのだが、言葉の扱いがとても好き。もう劇場では逢えない人なのだが、存在はいままで残っている。

 

りんごという物体をどう捉えるか。赤くて丸いでは足りなくて反対側が腐ってぐちゅぐちゅしているかもしれない、「こと」はそういう風に立体的に捉えて表現するものだみたいな。まさに現実という1つの視点を超えるシュールレアリスム

 

自分から見える世界は、あくまでこの視点から見た世界でしかない。

 

もっともっと考えているだが、今日の言語はここまで。

追いつかないのと書けないのと。

 

通り過ぎた(通り過ぎられた)人と、会えそうな世界線がある人と、会える人と。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。