不変

 

 

紫の彼岸花が出てくる夢。サイコというかホラーな展開だったがカラフルだった。血の赤と彼岸花の赤。血は黒っぽい。赤メインなのに先の方は紅白のボーダーになっている個体とか。

 

ほんと、頭の中には色んなことの細部が残っている。

宵顔さんは登場していない。

 

 

ぼーっとした一日。ニュアンスには他のこと、空想などに囚われるということが含まれそうだが、空っぽ。なんの言葉も頭に浮かばない。仕事は普通にこなしているし、シーンはいくつか思い返せる。ただ、その時に考えていた言葉がない。省エネというか、余韻なのか。おそらく特に悪いことではない。いや、何かネガティブな感じもあった。

 

昼ご飯には空中庭園に向かう。檸檬はまだ緑。お弁当を食べていたら赤ん坊にガン見される。

 

世界が言語に変換されていない感じ。

そうか、言語って表現のためにある。

 

これがほんとの素。ここから始める。

我ながら本当にめんどうくさい奴。自分のことが分かっていない。

 

さておき。

 

本屋でまたWEBサイトの作成を立ち読み。昨日はちくちくコードを書いてと思っていたが、別に目的がページ作成にある訳ではなく中身の方が大事だから、やはりアレにしよう。連絡先は苦情用に開いておいた方が良さげ。サイト名の仮題(イメージ)は、「海にたゆたう小瓶」。揺蕩うを漢字表記するとwordで赤波線が引かれるのだが、どういう意味だろう。常用漢字じゃないですよってことなのかね。たしかにひらがなのほうが良いかも。

 

自分がしたいことってたぶん僕が読まれることではない。僕の価値にフィードバックされないような場が良い。何故かというと、何故だろう?

受け手の劣等感と表裏で評価されることが多かったからだろうか。自虐は良いが、そのネタに僕を使わないで欲しかった。こんなの無視できるような人格であればきちんと自分の価値に連動できる健全な人格でありえたのだろうが。

 

こういう感じで退廃的な空気が流れている。厭世的ではなく、この方向性で進んで良いのかという感じ。ほんとは止まってゆっくりしたいのではとか、もっと物事をてきとーに捉えれば良いのではとかのセルフブレーキ。同じ階層でぐるぐる行ったり来たりするのも良いのかもしれない。

 

(ほんまか?)

 

現象化と内心を想う。内心は現実なのかという問いがあったとして、たぶん普通は現実に含むと思う。内心怒りが芽生えたが現象としては収めたと言うとき、おそらく内心の方に現実感があるのでは。だから、何かしたいという内心も現実とみなされる。僕は内心も現象もあんまり下世話にならない限り等価で書いているが、現実という基準で考えれば明らかに現象化したことの方が近い。

 

ここをよくよく考えていくと、言語化されただけの心は虚構の領域になるのではということになる。ならない?

 

これは人を見る時にとても大事なのではという感じがある。

ただの言葉に心が動かされることが無くなってきている。

 

発話は確かに現象だが、完全な内心の現象化でもない。

 

この辺りと意志の現実化は同じようなことなのでは。

 

やれやれ。

 

長く過ごした恋人さんが僕の日記に対して「整然としている」と評してくれたのは覚えているが、整理された言葉が素朴な言葉であるということはありえず、頭の中でもともと編集された状態でアウトプットされている。発話では時間がないし、整理された言葉なんて需要がないからスタンプみたいな言葉にしかならない。聞いた言葉を頭の中で再構成していたらテンポが合わないって仲間外れにされるだろうし。

 

発話は思考に馴染まない。おそらくもっと本能とか反射とか体が覚えている領分。

考えながら話すことは主観的にはあるかもしれないが、全くやってないことはできない。プレゼンが慣れというのもそういうことなのだろうな。歩くことと似ている。

 

文章もある程度はそうか。ただ、文体が構築されるのは自分の言葉としないといけない。

 

文体がしっかりしている文章って勝手に浸透している。人の存在みたいなもの。アンナカレーニナの上巻が終わったから、夏目さんの「硝子窓の中」を読んでいるのだが、たしか関東方面に行くバスの中で読んだなと、読んだ当時の自分まで想起される。

 

ちなみに、僕が夏目さんの本の中で一番好きなのは「行人」。「こころ」も捨てがたいし、むしろこちらの方が話の筋は残っているのだが、もうこれは感覚の話。「吾輩は猫である」は未読。

 

個人的に、こういうのが真面目に人生を捉えることなのではとした。

自分も人も数量化するのは楽だとは思うが、数量化されないところに自分が在るし、当然相手も在る。

 

数量化して捉えることは楽を越えて経済的であるらしいのも読んでいる。でもこうやってデジタルで世界を捉えたとき、AIが世界を評価することとどう違うのだろうな。

 

自分の話が通じる人、同じ価値基準の人、生活圏の人に重き置く世界観と画像認識するAIってよく似ているような。

 

どうでも良い(良くないのかもしれない)が、このご時世に危惧を置いている人の世界観の記事で、赤ん坊にマスクをさせるって、この時代でなかったら虐待でしかないというフレーズがあり、たしかにそうだな。幼児に過剰にアルコール消毒させるのも然り。

 

自分で考える時代というのは分かった。

 

ただ、この人の文体そんなに好ましくもないから、もう良いかとも思った。

そういう情報もあるというだけで十分。統計的には結構信ぴょう性はありそう。

 

個人的にはマスク世界でも特に不都合はないし、前の世界のどこに自由があったのかもよく分かっていない。会ったところで自分の存在を全開示できることはなくないか? 相手の存在を物理限定(前提)で捉えれば直に会った方が安心は分かる。

 

何も変わってないような。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。