のび

 

 

 

「触れないものを信じるのは馬鹿のすることと聞きました」。イヤホンから流れる触れない音楽が歌う。ここでいう「触る」は、五感で触れられるという意味なのかもしれない。ちなみに、五官も誤字ではなく、感覚器官を差している。対象を捉えた後の感じを表すのか、対象を捉えるフィルターを表すのかというイメージ。

 

ここまで「触る」の概念を拡げたとしても人は触れないものでも信じていると思う。

「信じる」も厳密に考えると何なのか概念の森に迷うことになる。存在として認識する、真実とする、事実である。ばっさり意味を測ると、諸々の前提とできるとかで良いか。

 

言葉とか最たるものではなかろうか。

ただ、人は言葉を触ることができるものとしている節がある。

 

note巡りをしていて、自分の頭の中を正確に言語化できるようになるというフレーズをみかけた。

 

そんなこと人にできるのか、絶対者でないと無理だろう、と一瞬想うひねくれ者。というより、自分の頭の中を照らした時に有るのは言葉ではないから、言葉を正しく外に移動させるような関係にはないという判断。演繹的な記号操作は同じものが移動しているだけで移動する前と移動した後のものは変わらないが、もともと言葉には客観的な意味だけでなくあいまいな歴史的な意味が含まれていて、思考とか叙情の正確な記述はありえない。

 

思考については、学問的な領域に限ればありうるが、そういう話ではないのも分かっている。

 

ここで、もう少ししっくりきそうな例。

アフロ、いやもじゃもじゃの大学生が謎を解いていく漫画。

「真実は人の数だけあるが、事実は1つだけ。」

 

文脈的に人が事実を語るとき、自分の主観的評価を混ぜるからどう捉えるかは人それぞれになるが、「起こったこと」は1つだということ。

 

なんとなく肯いてしまいそうだが、そもそもこの「起こったこと」とはなんだろう。

ここで問題になっているのは、刑法的な事実であって物理現象そのものではない。現象全体に拡げて事実が1つだと宣うのは、物理現象を方程式と実験で正しく解釈するルートを探求する物理学への冒涜なのではとか。刑法的な現象も誰が責任を負うかという文脈で捉えらえるものであってここにも解釈が入り込んでいるから、1つであるというより1つにするにはどう切り取るかというイメージ。

 

 

なんだか、頭の中にあることが事実であるという認識なのかなというイメージが浮かぶ。風景画みたいに、言葉を遣って正確に描写できるものであるという意識の方が近そう。

 

これだと、スポーツ選手みたいに日々鍛錬して頭からの指令と体の動きを一致させていくという方法論はありうる。

 

でも、当然ながら言葉は自分の体の動きではない。

あくまで、言葉は頭の中のうごうごした非言語を外に表す為の道具の1つであって、事実ではない。

 

まぁ僕は事実をあんまり信じていないからなんとも言えないが、頭の中に事実としての言葉がいっぱいある捉え方はすぐメモリ不足になりそう。

 

 

長い前置きだなしかし。

 

 

さておき。

 

自分の動揺を眺めていたらあっという間に仕事が終わった。

 

この心の波打ち。まずは無意識が終わりをどこからか捉えて、寂しくなっているのだろうなと解釈した。感情は事実ではなく真実寄り。自分の中のざわめきを主観的に捉えてこれはこういう感情であるとする。

 

もう少し眺めていると、これって単純に緊張しているだけなのではという解釈が起こる。緊張って一般的に上手くできるか失敗しないかという不安に係る。こういう意味の緊張は克服したはず。自分がどう繕おうが、印象を決定する主導権に主観は居ない。外部情報だけを問題にするなら知らないが。

 

 

いったいどうしたことだろうと思索したところ、近くで見ることができる世界線は、僕が近くで見られることを意味しているということに対する緊張。居酒屋のテーブルという距離で見られるような世界に居て良いのか、大丈夫かというところ。なにせ近すぎる。この現実的な近さが現実的に意識されたことで、しり込みしていると言っても良い。

 

人の頭の中が正確に言葉にできるものではないというのは、言葉がうごめいていると仮想しても、循環論法と矛盾だらけだから。矛盾がない人格があるとすれば、自分の中にある反対見解を抑圧しているだけだと思う。

 

僕としては、呑みがある世界線も、例えばイベント自体が雪ないしこのご時世で無くなって縁が切れる世界線も等価で、どちらも求めている。

 

ただ、どうしても拭えないのが、何故か一方の世界線に「幸せ」という言葉が付与されること。

 

この言葉が含んでいる概念にずっと外からの充実を感じていて、忌避感があった。

思い込んでいるというか言い聞かせているというか。

 

ここで出てきた「幸せ」は、この人が何かしてくれなくても有用でなくても存在しているだけで充分だわという感じ。

 

いや、実際にやり取りしたことがほとんどないし、実際の行動規範は文章から読み取れるものとは違うかもしれないではないかと反論が起こる。いやいや、触れるものだけ信じて良いことあったかよって。

 

ここまできて、やっと相手の世界に居る僕は大丈夫なのかという話になってくる。

ここは度外視できない。ずっと私信でどこまでだったら大丈夫なのでしょうかとは聞いているような気がするのだが、一向に回答はなくて面白い。

 

 

幸せになる必要がないというのも常識縛り。

 

変な個人的な話が最後。

 

色々考える質なのは読まれる通りなのだが、自分の考えていることを何かに有効活用しない方が良いという変な縛りがあった。学習してきた常識だったのだろうな。もっと曇ったところで人と接さないとって。あくまで世界は自分の為にあって、イレギュラーは怒りにできる、みたいな。

 

やれやれ。

 

今となってはもっと予測して良いし、もっと自分の世界線で突き詰めて良いとできてきた。

幸せな世界線を考えても良いし、自分とは関わりない人を想っても良い。

 

考え過ぎだって言われ続けてきたが、むしろもっと考えて良いわという次第。

そのうち自分のしたいことが見つかるかもしれないが、ないから生きている感もあり。

 

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。