強制

 

 

やりたいことに惚けてこの時間。明日はオリジンでお昼ご飯。

楽しいことをするのではなく、何でも楽しい。何かあったイベントが起こったときにしか記録されないのはなんだか虚構っぽい。日常には何も起こらないことの方が大半だし、そこを楽しめるようになった方がより自分で在れるのでは。

 

これで真面目くさって明日も仕事に行くのだから質が悪いとも言える。

 

出勤道では田んぼを耕している地主を見かけた。二期作かいな。

 

 

仕事。上層部が僕を評価しているということが分かったためか、少しだけ可動域が拡がった模様。まだ余地がある。仕事で手を抜くと調子が悪くなるし、ペースを合わそうとするのも良くない。僕が同期より上司になったら、おせっかいするためには情報が足りないからきちんと案件に記録してと指示しそう。

 

別に知識も理解も自分が十分だとは思わないが、お裾分けはできるくらいの余剰はあるという認識。人に教えるのは案外性に合っているのかもしれない。こっちの道もありまっせみたいな。

 

仕事ではちゃんと目的意識を持って仕事をしているという真面目。というか、僕はもともとこんなんだったなという感じ。この良い感じだったらどこでも生きていける。

 

 

まぁ良いや。

 

お昼に合流し、お弁当。隣のベンチの男の子が置いていったビニール袋を手に取って、「ゴミだったら回収しようかと思った」と発言する満月さんにきゅんと来る。ちゃんと外にも世界がある人。自分の利害の為に外を気にする人は多いが無関係の人を認識して動ける人は少ない。自分が善い人で居たいという欲求でもないし。

 

外に対して過敏な人って、基本的には自分が過敏なだけであって、他人がどうこうみたいなことは気になっていない。良いとか悪いとかではなくそういうものという認識なだけ。ただの感想。

 

合理的という言葉にも色々解釈があって面白いなぁと思ったのが、古参の先輩との雑談。先輩曰く日本人は他国の人より合理的だということ。中身は現実を踏まえて物事を判断できるというニュアンス。なんとなく行動経済学的な考え方。不完全な合理性を合理的と捉える。

 

目的を実態に合わせて変えるのはあんまり合理的ではないという気がしなくもないのだが、「理」を何処に置くかによって随分変わってくる話。このニュアンスを一緒くたにしてしまうのが言葉の弊害だが、発するもの読むのも自分の語用でしかなければここに齟齬はないはず。

 

僕は仕事では目的意識はあるが、日常で目的という語用を用いていないから、目的という意志みたいなことには門外漢である。目的がなくても稼働できるというか、目的がない方がよく動けるのがこの自分だと気付いたから、特に自己に対して義務を設定していない。別に毎日お弁当作らなくても良いし、文章も書く必要はない。楽しく過ごす故に我ありで良い。

 

しんどいことをしたことによってしか得られない境地があるって、なんだか修験者みたいな話で、んな訳ねぇよなという感じ。人にしんどいことをさせないと教えにできないというのもなんというか、その修練がなんの身になっていないという気がする。体育会系の部活によくある、自分が先輩に抑えつけられてきたから後輩も抑えようみたいな。

 

後に生きる人が楽になれるなら素晴らしいことじゃないだろうか。

そういうのが人間の本来のバトンタッチだと思うのだが、自分と同じくらい苦しめみたいな世界観の人がありがち。もっと効率的に洗練していけば良いのに、できなかったから戦争の歴史が繰り返されている。何しているのだ人類。

 

負荷はあくまで自分で自発的にかけるものであって、それが努力とか名付けられる一般的な概念にすべきではない。努力と名付けてしまえば、客観的に評価されるべきことみたいになってしまう。他人には見えないところを客観的に見せたいという精神性もよく分からないところ。

 

良い風に見せたいという精神性は分からんでもないが、

 

やれやれ。

 

自我の語用についてはショーペンハウアーさんが苦言を呈していた。この言葉あることによって主観でしかない自己が客観風になるみたいな。

 

今の時代は客観の監視カメラが多いから、自己像が客観的にしか捉えられないということになっているのだが、あくまで生きているのは主観でしかない。

 

あんまり書けなかったけどここまで。

 

主観で在れますように。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。