物体的精神

 

 

体が縮こまると心はとっちらかる。

 

 

トラウマに向き合う1日。昨日のとも繋がっているような感じ。結局は内観が世界を決めている。割とこれを面白がれるというのは刷新されているのだろうな。

 

ちなみに、あくまで僕の話であって誰かに適用されるとは思っていないという注釈。自分がこうあることは他人もそうなるべきみたいな世界観では生きていない。人の変調には放置しつつ寄り添う質(らしい)。

 

午前中は省略。ブルガリアヨーグルトのアイスが美味しかった。

 

昼にコンビニのイートインでパスタとサラダを食べてお手洗いを借りたとき、ふと自分ルールってどうやって決めているのだろうなと思った。こういう状況に対してこういう振る舞いをするという現実化の規範って、「こうした方が良い」という一般論、いや、一般論はむしろ「なるべくしない方が良い」という方向で作用している感じ。あえて自分の意識で体をコントロールしようとする規範はないが、何か一定の方向の可能性の世界線の中で基準不明の選択をしている。

 

善人ではないから善いことをしようという方向では決してない。より優しく在るようにも「優しさ」の定義が曖昧だから基準にはならない。要求に応じるというのは在りうるところだが、なんだかんだ自分と一致していないと従わない。わがままだが、かといって自分を押し付ける程確立した自分はない、いやどうだろう。意識が知らない(言語化できない)ところで、固まっているのかもしれない。だとすると、これを知り得るのは僕ではないような。

 

衝動に対して億劫な気分になるのは処理する量が多くなる無意識からのブレーキだと学習した。否定する言語が次々にやってくる。そこに留まっていたい無意識のそこを占有したい惰性。

 

そういえば「最終講義」で、西洋史の学者が世界観について語っていた。一般の人は世界を「空間的」に捉えるが、歴史学者は「時間的」に捉えがちだとか。たしかに時間を空間の構成物として捉えるところがあるような。僕の世界観は時間でも空間でもなく「可能的」だと思う。ここには当然時間も空間も含まれるが、それだけには留まらない。「できる」、「したい」、「在りうる」とかも世界を構成しているという意味。

 

そんな感じでお手洗いから出て、体と頭を動かしたい衝動を遊ばせる。まずは頭から。コンビニから徒歩3分くらいに史上最高の古書店がある。あまり便は良くない部屋なのに引っ越さないのはここがあるかもしれない(後付け)。

 

まずは外に置いてある50円棚を眺める。ざっと見て引っかかりがなければ買わない。

 

文学の世界も開いたから、今までは視界に入らなかった文学棚もじっくり眺める。西脇順三郎がやたらと視界に入ってくる。たしかシュールレアリスムの人。ちょっと「文学の教室」という本も気になる。文学は定義できないが、芸術の1種であるという下り。なるほどなと思いつつ、買いはしなかった。

 

詩のカテゴリーのところに黒い装丁で白抜きのタイトル、なんだかの氷雨。冒頭の詩を読んでみて、今までに無い、詩を読んで情景が浮かぶということが起こった。これは買うしかない。と、買ったのは結果であって買うまでは500円という対価が釣り合うのかとか、次で良いのではという逡巡が巻き起こる。あとになっては面白いところ。買ってから調べると何かの文学賞を得た人らしい。なるほど。

 

左川さんの詩は情景が全く浮かんで来ないが文字を追うだけで心地いい感じ。北川さんによってまた世界が拡がる。

 

あと、小説枠が空いたのを円城塔さんで埋めて、科学枠に「量子力学イデオロギー」という本を採取。量子論が社会にどういった影響を及ぼしたのかという本。僕の可能的世界観と量子論は相性がしっくり。科学観は検証されているという意味での客観だが、どう検証されているかが専門家にしか判定できないという意味では宗教と似た所がある。

 

そうして2階。ブルトンの「ナジャ」は相変わらず入庫なし。岩波文庫赤帯590-2。ふとワイド版が目に入り、諸々ぱらぱらめくる。本日のコンセプトは冒頭で惹かれたら買うということらしい。「人の心を種にして、万事(よろず)の言の葉になりにけり(おぼろげ)」、古今和歌集の冒頭に痺れてしまった。言葉がお洒落だ。

 

頭の動きを楽しんだあと、そこから信号を渡って徒歩2分ほど。バッティングセンターに入る予定だったらしい。球速が遅めのブースに入り、軟球を100球打った。時々割れた魔球が投げられてくるが、昔取った杵柄なのか思いの外当たる。ホームランの的も2球惜しかった。

 

中学校の部活は軟式野球部で、これこれで若干トラウマ。陽の者ばかりだし、練習も凄く嫌だった。当時は150㎝弱で体もできてないし、父親が奮発して買ってくれた万能のグローブもスパイクも不釣り合いに重くて全然体が動かない。当然ベンチ要員で、なおかつテストの成績が良いというだけでスコアラーに抜擢されるという。高校の面接で経歴を語るときに「字が上手くなりました」としか語れない。(当然上手くなっていない)

 

バットもやたらと重くて、思い通りに全然動かせなかった。今の方が全然気持ち良く打てる。まぁこの体に固定されて10年は軽く経っているから流石に馴染んでいるか。ただ、バッティングセンターは右手にダメージが酷いから、あまり日常的にはできないな。親指の腹と小指の付け根の皮が剥がれて沁みる。

 

その後は散歩。近所の緑地公園をなぞるように歩く。警察官に手を振る子供、返す警官の光景、微笑ましい。髭男爵の音楽が聞こえてきたと思ったら乗馬クラブだった。そんなことよりかつて打てなかったボールが打てるようになったのであれば、もっと体を自在に動かせるのではとダーツに向かう衝動。

 

行ってみたら下手すぎる。2ゲームカウントアップを投げたところダーツの重さを全然感じられず、ふわふわ的から外れる。左側のエンジョイ勢と右側のガチ勢カップルに迷惑がかかりそうだから、漫画を読むことにする。スパイ漫画だが、アニメ化で盛り上がっているのではないやつ。

 

しかし、この「迷惑」は後付けの理屈で、本当は「下手に見られるのが恥ずかしい」なのだろうなと、トラウマを言語化する。迷惑も然りだが、物体的めんたるが他人に影響を受けすぎているということ。そのうち人が居なくなって自分に没頭できるようになると体の動きに向き合えるようになったし。相変わらず下手なのだが、社会的な関係への下手さと等しそう。不適合者。

 

人にまなざされることに敏感なのは、ある意味舞台だからだろうな。1人では居られないことに耐性があまりない。他人が居ても自分で居られるほど僕は自分の人格で椅子を取っていないし。

 

まぁこのタイミングでダーツがやってきたということはここも乗り越えろよということなのかもしれない。世界を決めるのは運命ではなく自分の中に居る誰か。意識は主導権を握っていない。

 

一応対策も考えている。まずは体を意識すること。そして感じに任せること。

 

ついでに、ここの文章も感じでしかないこと。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い○○を。