変数

 

左手の親指の同じ場所をスズメバチに2回刺される。痛みはないが毒物が循環していく過程で肘の辺りの痺れ。新築する前の実家のこたつで寝ている。刺されたところも見たはずの母親が、体裁が悪いから母屋の方で寝なさいと言う。まぁ、そんなもんかと思う。とくに失望もなかった。

 

という夢の前半。

 

後半は、1度も無かったことだが小学校時の通学路を父親と姉と散歩をしているシーン。谷の上に道があるような立地で、そこには川が流れている。川の方で誰かが遊んでいる。道端に紫の彼岸花が咲いていて懐かしいと思う。

 

夢から醒めて、かつて見たことあったのかと疑問。今調べて見ると実在はするみたいだからどこかで見たのかもしれない。色合いが夢と一緒の画像もあった。

 

二度寝辺りのうとうとしながら、通学路を鮮明に辿る。時間は人間の外の空間に存在しているのではなく、中にある。とすれば既に人間は3次元より高次の存在になるような。

 

 

日中。

 

仕事が億劫な感じがするのは、次元を合わせて(ホウレンソウとか納期とか)全力で遊べない窮屈さにあるのかもしれない。このラグどうにかならんのか、人というより企業のシステムについてもっと合理的にできるのではという感じ。仕事上の会話はもっと必要なことだけ話せば良いのではとかなんとかかんとか。まぁこの中でも勝手に楽しめば良いのかね。

 

 

夜。

 

生活を豊かにするためにカルピス原液を買ってきた。毎日飲むことはないがふと飲みたくなったときに自販機まで行かなく良くなる。PDFファイルの科学的な方法論16頁を消化(昇華)。こういうのを義務教育で教えるべきでは。どういう経緯で帰納法演繹法が生まれたのか歴史を辿って鳥肌が立つ。243頁の社会学の博士論文のファイルをダウンロードし次の活字も万全。とりあえず先へ。書きたかったからまたあとで出てくることになる。

 

夕食。きゅうりがあと1本残っていて、これだけでは副菜には半端だから、セロリを買ってマリネにした。オリーブオイルと酢とレモン汁と塩コショウ砂糖くらいで最低限だと思うが、ここに梅肉も投入。梅の色も味もないっちゃないが、隠し味として美味しい。安くなっていると時々買いたくなる青梗菜の話は省略。

 

 

はい、ここから本題。哲学パートなのか存在(実生活)パートなのか分からないがともかく進む。

 

シュールレアリスムとは何か」で、「メルヘンとしてのおとぎばなし」の章。人間が暇になったからお話が生まれた、暇とはすなわち、狩猟から農耕に生活が変わったことでただ生き延びることから自由になったこと。という意味で現代を読み解けば日本人のほとんどは暇人でしかない。まぁ、生き延びるの定義が拡がって、文化的(健康的)にとか、社会的にとか、最低限の水準が上がったような傾向があるのかもしれない。どちらにせよ生きるか死ぬかの領域で獲物に食べられて自然に還るということはほとんどないが。これが恵まれているという評価をすることもない。暇という自由は不自由とセットだから、暇が増えているというこは不自由も増えているということで、豊かになったかどうかとは別の話。

 

暇ということは余っていることであって、任意に使える。ここをアプリゲームで埋めることもあったのだが、これももう卒業して、もっと読みものに暇を使おうと思う次第。

 

noteで活字中毒というなにやら面白い記事を書く方を発見した。こういう自分の記事の中に他人を登場させるのは越境的無作法だとは思うが、これはそれがタブーであるというより、そこまで他人に注意を払っていない、もしくは泰然とした自他の区分けが存在するということによりそう。メルヘンが生まれた時代には子供という概念は存在しておらず、小さな大人みたいなことだったらしいし。子供服はなくおさがりのだぶだぶの服を来ていて、子供向けの童話も存在しなかったとのこと。

 

 

神様の話はもう少し後にして、「活字中毒」という普通名詞(合っている?)についてふと気になった。どうでも良いが、おとぎばなしの定義上登場人物は普通名詞で語られるらしい。「シンデレラ」は今や固有名詞みたいになっているが、もともとは灰被りみたいな意味だし。

 

そうして気になったのが、この活字中毒という単語、誰が言い出したのだろうということ。ウィキ先生は表題で侮蔑語だと書いていたからスルー。コトバンク先生も活字を読んでいないとイライラする人という感じでなんとも。書籍という物を愛するフェチシズムもあるらしいが、なんともしっくりこない。そこで、自分で考えてみることにする。

 

中毒という言葉はほとんど駆除されていて、たしか言い換えとして「依存症」になっているはず。で、依存症が当てられる対象は健康を害するみたいな筋がまずある。ニコチン、アルコール、薬物。活字はこれに当たらない。もう1つの筋に生活が破綻するという筋としてのギャンブル依存症。健康を害すると生活が破綻するはセットであることが見受けられるが、ここに挟まれた活字とはいかに。

 

これの共通項を抽出してみると、活字も含めて実生活としての仕事(営み)が損なわれるということに集約されそうという当て勘。これじゃないと誰にも迷惑をかけていない本を読む人が侮蔑語で括られる意味が分からない。生活は三次元軸の唯物論で構築されているから、そこを外れるのが異端であるという捉え方。空間で動く方に価値があるという感じなのか。

 

ただ、これって人が動いて仕事しないと生活が成り立たないという産業革命辺りの価値観のような気もする。ここでは本を読むことは机上の空論的な知識が集積される頭でっかちな侮蔑になるのだろうが、個人的には本を読むことには活動があるとする。

 

ちなみに、僕はこの依存症とされることはギャンブル以外でコンプリートしているが、それが不足した時にイライラすることはない。いっぱい呑むし、いっぱい吸うし、いっぱい読むが、それができないときにそれを恋しいとしないという。

 

健康的に生きるというのも、僕からすれば依存症の一部だとは思うのだが、これは実生活の範疇だから侮蔑語はあんまり生まれない。個人的には暇の選び方の1つだとしておる。健康的に生きたところで長寿という対価が返ってくる訳でもないし。

 

客観的な健康で生きるより、いま幸福だってできる方がよほど長寿になると思われる。個人的には長寿が良いこととは思っていないが、暇が増えれば増えるほどいっぱい読めるなって思うところはある。古典文学も全然読めておらんし。

 

もちろんここには最低限他人を巻き込まないという礼儀がありき。

読書は全人類的に効用があるものだとしちゃうとか。娯楽という概念もどうなのだろうな。

 

 

そうしてもう1つ。

 

高次元の話。僕のインターネット世界、割と高次元の世界の宇宙人と交信しているらしい記事が増えてきている。別にこれが悪いとか都市伝説とか嘘だろうとは思わない。そういう風な世界観で生きられるのは良いこと。

 

ただ、この人達が語る、5次元やら9次元の「次元」って何を意味しているのだろうという解釈は気になるところ。人間で言っても数学が多次元の観念を備えているし、別に人間自体が辿り着けない領域ではなさそう。

 

なんなら詩だって多次元っぽい。

 

まぁ、こういう感覚が、何か三次元から離れた領域の知覚であって、その言語化がこういうことになるということであれば、なんとか。解釈する当人が言葉に疎いとか。まぁハッピーぽいから読んでいてひっかかるところはない。

 

神様という概念の原初は人間に知覚できない大いなる存在への畏怖があって、それを擬人化するところにあったと読める。原始宗教。という意味でみれば、高次元をなんとかというのも、亜種ではありそう。

 

個人的こういった宗教観はありきだが、他人と共有できるものではなく、もっと自分の中で信じられるうごうごした高次元に還元できるのではとなっている。これを神様と呼ぶのかどうかはそれぞれだが、そろそろ人って他人と共有されなくても自分で居られる存在になっても良いのではという感じ。

 

ざっくりしている。

基本的におおざっぱのなんでもない1人。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。