食べ方

 

 

ぐわーっと何かを考えている。

ここを言葉で発掘するのは難しい。

 

 

とりま、いつものように取り留めなく。

 

 

朝ごはんにブログやらなんやらを読み漁る。本の虫ではなく、活字が主食です、という自己紹介ができそうなくらいに、ほぼほぼなんでも読んでいる。ニュース記事は特に美味しくないから食べないが。だって、知ったところで何も分からない。そんなものも知らないのかという雑談をするような日常には居ないし。子供の頃は、話題に付いていけるというかテレビを見流すのが当たり前だったから情報として知っていただけで、受信された情報は3日後には忘れている。なにせ、不必要だから。

 

書評ブログが更新されていた。読書感想文ブログってあまり読まないのだが、この人のはなにか味わいがある。「キャッチャーインザライ」の村上さん訳か。たしか読んだことがある気がするが、最初はもっと前の別の人の訳で読んだような。当時はどちらもよく分からなかったからそのうち読み返してみようか。

 

どうでも良いが、僕の言い回しが村上さんの小説の登場人物だと言われたことが数例ある。どうだろう。たしかに文体の一部に影響されているところはあるような。最初にきちんと食べた小説は「ノルウェイの森」だったろうし、「やれやれ」はワタナベからいただいて文章で使っている言葉。

 

影響を受けるのは憧れで一時的にできる。ただ、受け続けるということはなにか性質的に近いところが無くもないという説。僕は特に村上さんに憧れている訳でもない。作品を美味しく食べさせていただいているのはある。

 

 

さておき。

 

昨日で運試しも飽きてしまった。お金が消費されているというのに眠くなってしまう。ここまでという歯止めも利くみたいだし、依存は無いらしい。そして、本日の仕事でも眠くなってしまう。ありゃ、こいつ、飽きつつあるのかという感じ。眠くてポカするということはなかったが、そろそろポカするのではという危惧はあった。動きが足りないのか。

 

本日は潜在意識とか、固定観念とか、世界を食べることとかがいっしょくたになって、少しまとまりそうな感じ。

 

まずはオカルトというか、世界の拡張というか、微妙なところの記事が朝ごはんにあった。「宇宙人」の話。宇宙人については色んな説がある。僕は未来人説をちょっと推しているのだが、本日は地球の人類が知覚・計測できない異次元の宇宙、いわばパラレルワールドみたいなところを越えてコンタクトを取りに来ているという説。これも面白いし、これまで人は五感で知覚できない世界を計測で拡げてきたのだから、これ以上拡がらないということはないというロジックで筋が通っている。自分が体感できないものは信じないという常識からすればナンセンスだが、電波だって使えているだけで知覚も体感もできていない世界のものだしなぁ。

 

昨日の日記に書いた「我」の概念について、自分の小学生の頃のような感じとの評があった。「独りでも楽しめる」。僕も小学生時はかなり笑っていたと思う。言葉が拙いから自分のナカのことを伝達することも表現することもあんまりできないが、世界に対して楽しんでいたという節はある。何かズレているなという体感はあったが、スポーツもまぁまぁでテストもできるし、キラキラしておった。

 

笑いの量で言うと今の方が多いか。

 

人は何故か、若い頃の方が感度が高いと自分の過去を惜しむ傾向にあるみたいだが、そこが僕にはどうも分からない。幼年期とか少年期は好奇心が旺盛とかって、オトナが持っている固定観念からズレた奇抜なだけであって、別に当人は奇をてらって動いている訳でもない。

 

固定観念という社会性は装飾として身に着けたとしても身重な鎧ではないし、時々脱いで遊べば良いのに。この場を提供するのが音楽というのは分かる。昨日の帰り道、同じようなTシャツを着た音楽イベントに向かう匿名的な行列が海岸に流れていくのを見た。でもこちらの遊びも個人になる遊びではなく、誰もがいったん社会性を脱げる場での一体感と思われるから、どちらにせよ独り遊びではない。僕が劇場は好きで、音楽場があんまりなのは、劇場は劇を見ながら中で独りで遊べるが、音楽場は自由という名の作法があるから。まぁ集団が動くのだから、ルールがないとリヴァイアサンのようになるのも分かる。

 

大人が小学生のような好奇心のままで居られないのは、奇抜に向かう衝動を抑える常識が備わるからと思うが、きっと両立もできる部分。

 

ちょっと昨日の母親の言とも繋がるが、固定観念について、マルクスさんとかマックスウェーバーさんが、歴史的な傾向を説明不要な事実とするというニュアンスで語る部分があった。国民経済学で言えば資本主義は歴史的な事実だから、交換とか分業の概念の説明が不要だという既定。

 

たしかに、歴史としてインストールされた観念って、それがそうである以外に説明ができない。思考の対象ではなく、好悪みたいな世界。もしくは善悪と言っても良い。良いではなく善い。

 

事実としての観念は説明不要で伝わるというのは便利というか、ある一定の集団において観念が共通されていて社会的な振る舞いの予見が立つという意味では省エネで良い。他人を個別的にいちいち分けようとすると情報量で処理落ちするし、相手が社会的にそう行動すると信頼して良いという法則もある。刑法学では信頼の原則と呼ばれる概念。

 

でも、具体的な相手に対して、こういう大きな網でしか語れないのはなにかおかしい。

いや、このおかしさを意識として取り上げられるようになったのはごく最近なのだが。良識あるオトナが、前提にある事実を疑わないってなんか時代と人格が癒着している感。もうだいたい戦後の人で占めているのに、そう生きなきゃならなかったとなるのは変。個人主義の本質は、外では社会的なルールがあるが、内側ではそこと切り離せるようにすることなのでは。

 

今の時代は治安維持法みたいな反社会的な思想を持っているだけで処罰されるようなことはないのに、何か気持ち(精神)まで正常であらねばならないという強迫観念が浸透してそうな。

 

 

知らんけど。

 

 

そうして、冒頭に戻って来て「食べる」のこと。

 

先に結論を述べると、文章はもっとも効率的に世界を取り入れることができる食べ物である。

 

いやいや、食べるの対象は食物であるという反論がきっと起こると仮想して、ではそもそも食べるとはどういう概念なのでしょう。

 

「性食考」という諸々の国に残っている神話にある性と食の共通性を語る本がある。たしか3年前くらいに買って一回読んで、いま読み返している。

 

もちろん、物体的な肉体を保持するための栄養摂取という当たり前の概念もある。ただ、今の世にある食べ物のほとんどが保持よりも享楽向き。

 

ここは良いとして、食べることの本質は、世界に対して穴を開いて世界を取り入れることにあるというフレーズ(意訳)が響いた。要は、自分という自らが世界と分かたれている存在と世界の境界を越えること、いや、曖昧にすること。肉体を保持する為だけであれば、SF小説に出てくるような、カプセルで栄養補給できれば事足りるが、美味しいご飯を求めるのは、そこに世界を摂取しているという喜びみたいなものがあるから。

 

で、世界を取り入れる穴は、別に口だけではない。目だって良いし、脳の皺には採り入れ放題。生きることが世界を搾取するものだとすれば、物理的な食べるは動植物を殺生した上のものだが、文字で採り入れるのは誰も殺さない、人間的なご飯。

 

人間はカロリー以外の得体のしれないエネルギーも食べられるから芸術が存在しているという説。

 

読書をして培えるのは、そういう世界であって、それが現実に役に立つかどうかとは別の次元にあるし、語意だけ汲んで食べるというのは、料理で言えば誰かが作ったご飯を食べて、美味しいか不味いかだけで作り方を想像しないのと近い。

 

僕は読書によって想像力は培ったが、創造力までは至っていない。

何かまだ歯止めがあるのだろうか。僕には創造ができないという固定観念

 

どうでも良い話を最後に2つ。

 

なんだか、副業というワードが頭の中に浮かぶ。特に何も具体的なことは浮かばないのだが、あるとすれば、言葉繋がりだろうな。

 

もう1つももっとろくでもなくて、今、成人男性であればほとんどの人がしているだろう解消をやらないことにしている。アレは時間かかるし、その時間で何かを食べられる訳でもないし。この話は男女問わず、してもしなくてもタブー観があって書きにくい。

 

はい、もうお時間でした。

 

おやすみなさい。

 

善い夢を。