動的メモリ

 

 

 

起き抜けに鏡を見たら随分とすっきりした良い顔が見える。良い顔というのは造形ではなく、何か憑き物がまた落ちたなという顔。隈も薄い。

 

 

夢のまにまに、頭の中でうごうごしている文章より、生活の動きの中で思索している文章のの方が面白い(好き)と言われた気がする。ほんとに夢かもしれないが、そこは構わないこと。実際の夢は、既存の概念とのお別れかなという感じがあった。もうそこには居られない。

 

 

朝ごはんは、この休日でいっぱい食べたから調整のお茶漬け。お茶漬けの素がなくても作ると開示したら以前びっくりされたが、水に白だしとわさびと梅干を入れて沸騰させればすぐできる。刻み海苔があればもっとそれらしくなるが、素がかかってないとそれではないというのは思い込みに過ぎない。

 

(それにしても、外でとどろく雷鳴が凄まじい。世界が洗い流される)

 

 

さらによく寝て、昼過ぎに髪を切りに行く。店長さんかと思ったら交代でよく話す人が坊主で登場。僕も今ややってもいいな。笑

 

いつも如くゲームの話。その中でポケモンを幼少期しいてた世代には特殊な脳の領域が形成されているという話を聞く。記憶力がおかしくないかということを捉えた学者が研究したらしい。実際帰ってから当たりをつけて「ポケモン 脳 メモリ」でグーグル先生に聞いたら一発で出てきた。特殊な領域は言い過ぎで、ワーキングメモリの発達に寄与するというくらい。

 

僕も緑をやっていた世代だし、151匹書けるような気もする。

 

ゲームに熱中している人は阿呆になるとか悪影響が語られるが、少なくとも脳の機能の活性化としては「んなことはない」になったのでは。現実とゲームの区別がつかなくなるというのは微妙なところだが、そもそもこの区別ってあるのかどうか。これはまた後で。

 

で、ワーキングメモリの話。

 

僕の感覚では、ここは記憶力というより「いま稼働しているところ」であって、再起される情報ではない。だから使いどころがなくなれば意識が取り出すことはできなくなる。でも、ここの広さが人の思考力を決めると言っても良いのかも。

 

要は、頭の中の世界における運動を司る機能。僕は中学校くらいまでは勉強もここでやっていたのだろうなと思う。高校でできなくなったのは、単純に情報量が増えたからではなく、静的な情報(=暗記)を求められるようになったからなのではという解釈。定義とか用語とか法定式とか、頭の中で身動きが取れなくなる。教科書何ページから何ページまでを覚えてきなさいとか、何が面白いのだろうって。ただ、模試はある程度範囲が決まった静的な領域ではなかったから、そこそこできる時もあった。

 

この特性に気付いていたらもっともともとから楽しかったのだろうが、なにせ周りがお勉強はしんどいものだとしているから、そこに合わせてしまう。たしかに、静的な情報を溜め込んでいくのは限度があってお腹いっぱいになってしまう。もう要らん。

 

ワーキングメモリは基本的に身体的な動きと連動している。車の運転とか、会話とか。会話をしている間に相手が言った言葉を把握してないと、聞いてないと思われるし会話が成り立たない。だから、現実のみを生きている限り、この領域が拡がることはない。1日はただ過ぎ去っていくものだし、その中で何か勝手に引っかかった部分が記憶になる。

 

自分の情報が記録的なのはそういうことなのか。

 

僕がゲームをしてきた人と話がしやすいのは、こういった動的な脳の領域があるからなのかという仮説。少なくともゲームの領域であればたくさん覚えていても変に思われない。

 

ワーキングメモリという名称も絶妙だよな。仕事が運動の領域だというネーミング。ネーミングと言えば、メンデルの法則の劣性遺伝という言葉も使われなくなっているとか。用語の中身ではなく印象が波及するって、言葉の魔力を感じる。虚数と実数とか。

 

ともあれ、読書をする人が好きなのかという命題。

 

僕はいま読んでいる無知の塔の本達を並行読みしていて、このラインナップ、相互に引用されているところがあって、イメージとしては僕の中で談笑やら議論やらが進行形で起こっている感じ。覚えているのではなく動いている。動いているものは覚える必要がない。そして、動いているものは言語化するのが後になる。

 

こういう意味で、読書癖がある人の中にも、受動(静的)に本を読む人と能動(動的)に本を読める人が居て、僕は後者の人なら好きだと思う。本で動くというか、動くための手段の1つとして本を読んでいるというか。

 

こうなると、別に手段は本でなくても良い。何処かに行くとか、何かをするとか、単なる生活の中でも自分の意識が動けるかどうか。動いている限り、誰かを否定する暇はないような気がする。目に入ってきたとしても。

 

そういえば、母親と少し話したのだが、なんとなく色々バレている気がする。何か変わったことがあったのかと聞かれて、無いと答えたけど、適切な言葉としては「変わったことしかないから特に変わりはない」ということになる。

 

言葉の前に伝播する何かを伝えるという自負はあっても良いのか。話さなくても。

 

ワーキングメモリと記憶の区分けは時間なのだろうな。今と過去と未来の三次元的ホログラム。

 

 

やれやれ。

 

散髪ですっきりしたあとの帰りに、ダーツに行くか帰るかで迷った。どちらにせよ楽しくて比較できないのが迷いの本質のような。「先輩はおとこのこ」という漫画で、ヒロインの女の子の叔母さんが、あの子は気味悪い、何も決めないからって言っていた。僕も決めない子供だったなぁ。優柔不断だって評されてきた歴史。

 

でも、これって、ほんとに自由に選んで良いってことではなく、カタログが決定された上での選択だし、これを選ぶだろう、選ぶべきという予見もされている監視付きの選択であって、全然選んでないじゃん。

 

僕の中での選ぶは世界線の移動であって、カタログから選んでいる訳ではない。

どのジャンプが楽しいかって、けんけんぱをしているお子様みたいであることは認める。

 

結局帰ることを選んで、寝たりもぞもぞしたり、ウタマロ石鹸で漂白したりしたあと、5次元世界の本を読んだ。

 

去年の4月に、光の勢力が勝ったのだとのこと。たしかにその頃やたらとすっきりした気がする。ほんまに。それまであった強迫観念みたいな憑き物が落ちてしまったなぁって。

 

あと面白いのが、5次元世界に移行すると世界が都合よくなるという下り。やたらと意識が鮮明になるとかなんとか。ただ、僕はハイヤーセルフとか高次元からのメッセージはなんもないし、ここで書かれている文章にもちと疑義がある。

 

例えば、人間関係は等価交換であるというところ。価値規範はそれぞれなはずで、それが等価になるってなにかオカシイ。それに、地球の自然を愛でてない。地球を場としか捉えて居ない。

 

僕が想うところの人間関係も含めた自然は、適切な言葉を当てると「循環」だと思う。その中の部分として「等価」があるというイメージ。例えば音楽家が音を伝播させるのは、ライブだと等価的なところもあるだろうけど、自分が流したエネルギーが他に流れることを是としているのだろうし。意図もしていないのか。

 

高次元の本で、自分を浄化する言霊の中に「自分は光である」と唱えるのがあったが、僕は唱えるまでもなく「縁側」であるらしい。

 

したいことの構想はあるのだが、全然現実化されない。

まだ動きが足りないみたい。

 

おやすみなさい。

 

良い光合成を。