ダウナーというアッパー

 

 

夢は早朝に回る隣人の洗濯機の影響なのか、何か音があった気がする。部屋の外にある駐輪場の屋根に積もった葉っぱをせっせと片すカップル。僕の部屋のカーテンのかけ方がおかしいと突っ込む芸人2人組。どこかの宵で逢ったかもしれない見知らぬ女性が覚えてないでしょうってにまにましている。

 

宵は存在をミキサーする。

 

 

さておき。

 

元気ではあるような感じなのだが、頭の中のうごうごがやたらと激しく言葉で読み取れなかった。これは一般論で言うところの調子が悪いなのでは?

 

やたらと過去と呼ばれる像が生々しい。かといって、僕はそういうものだとしており、特にいまに支障がない。と思ったら、そういえば本日はもっとも長く過ごした恋人さんの誕生日だった。特に何もないのに、体が精神の不調の時代を覚えている、のか?

 

不調の時の方がよくしゃべると言ったのは誰だったっけ。

 

混線。

 

あぁ、うごうごのうち、2つほど出てきたな。

 

まずは、あまりに現実的な話。

収益も価値もないが、僕は毎年固定資産税を払っているのだった。地元の山奥に相続された土地を所有しているらしい。戻って暮らすにはあまりに辺鄙。コンビニまで車で30分はかかるし、おそらくまだWi-Fiの電波も通っておらず日記も書けない。

 

これは任意で得たものではないから放棄できるならしたいところ。税金だけが徴収されている。別に大した額でもないが、そもそも固定資産税のコンセプトってなんだっけと、お風呂読書の税法の本をぱらぱらしたが、自明な前提として設計思想はなかった。もともとは使用というより土地には収益価値があって、文字通り有限の中で場所を取っているのだから、場代みたいな意味だったのでは。今や1人歩きしている。

 

税の本質として、徴収した対象の為には使われないから、まぁこれで某町の財政が潤えばなんて、焼石に水。近所のゆうちょに払い込み用紙を持っていったら何やら担当の人がびっくりしていた。たぶん形式が大阪と全然違うのだろうな。

 

法律談義。土地所有権の放棄ってできたっけ。誰も所有していない土地は国庫に帰属するという条文はあったし、土地の所有関係を動かさない地上権とか抵当権は放棄できたような。

 

調べてみると、やはりそういった条文はないらしい。16頁のPDFファイルがあったから保存。今度読もう。国家でも地方自治体でも良いが、使い道がない土地は誰か個人に維持は任せて、税だけ徴収できたら都合が良いのだろうなと想像。

 

とりあえず、1回帰るか。母親はもう別のところで住んでいるから別で。どこが自分の土地かも知らない。

 

もう1つ。素朴の話。

 

僕は昨日の日記の論、普通に生きて情報を眺めたら自然と辿りつく見解なのではと思っている節がある。だから自分で決めるものだって。

 

ただ、その前に当たり前の正しさが設定されていると、その正しさに流れるのだろうなぁという感じもある。僕の素朴は当たり前の正しさは存在しないということで、その中にはもちろん自分がしていることが正しいという基準はないから、批判があっても然るべき。

 

ふつうの人は居ないというのはあまりに紋切り型の極論だが、もっと極めると素朴さこそ個別な人格であるということになる。素朴な自分になるのは実はとても難しい。

 

人も自分もコンテンツにできないのが僕の素朴だが、自分がコンテンツになって良いという素朴がある人は人をコンテンツに捉えるのだろうし。僕もコンテンツになっている人の文章はたくさん読んでいるし。

 

ついでに、僕の素朴はてきとーだから、自己矛盾はまるごと許容している。だったら、自分をコンテンツにして遊んでも良いよな。

 

ややこしいのは、何かの納得がないと動かない性分なところ。

この「納得」の概念は色々あるが、僕の人生劇場を豊かにしてきたものだから、だいたい放っておいていい。分かりやすいのが、哲学書を読んでいて素朴な自分と一致したとき、あぁこの生き方で良いのだろうなってなること。現実世界ではほとんどない感じ。

 

帰宅後。Kindle読み放題が光文社の哲学本のキャンペーンをやっていて、ニコマコス倫理学があったため、即ダウンロードした。アリストテレスさん、この時代まで残るだけあってとてもシンプルで分かりやすい。「抑制のきかない人」の概念が面白かったが、なんとなく省略。

 

もともとの倫理学って、自分にかかりきりにならなくてよくした自己の余剰の行為としての善であって、場の中で自分の位置を守るということではないのだろうなという感じがあり、倫理苦手な素朴でもふつうに読める。

 

こういうのを最初の道徳の授業の時に聞きたかった。

 

残っている哲学書の共通項っておそらく、世界を解釈することはあっても決めないことにある。解釈を突き詰めたところで正しさは見つからないし。

 

古典、大事。

 

 

中でのうごうごは一旦置いておいて。

 

本日の現実的動きの記録。

 

仕事中、割と暇だったため、地図を見ながら、左手で都道府県の書き取りの訓練をした。何をやっているのだという感じだが、僕は無意味な行為が好きなので。あと、地図で来月行くところをイメージした。豊田市美術館と、のんほいパーク(動物園)。

 

そこからさらに東に目を向けると、浜名湖から浜松。眺めていると、そういえば浜松には行ったことがあった。大学時代の知人が転勤で浜松に住んでいて会うことになった。高速バスで行く時間で着くと嘘をついて数時間前乗りし、浜名湖と浜松の間にある小さな湖まで散歩。体感で往復三時間くらいかかったような気がする。そのあと飲んで泊まって朝起きたら子供達がぐるぐる走りまわっていた。たしか「さわやか」というレストランでハンバーグを食べて帰った。

 

その知人と話した言葉があんまり残っていないのは、相手にとって僕の存在が薄いからという説。

 

やれやれ。

 

お風呂読書(無知の塔)において大事なのが最後に読む小説。そこからここの日記に流れるから、感じの色が香る。ここ何日か「存在のたえがたい軽さ」という本を読んでいたのだが、僕の素朴とは合わなくなってきた。存在は軽重ではない。

 

昼休憩に寄ったリブロで「スカイクロラ」の新装版を見かけたから、あるかなと思って書庫を探る。全然見つからない。しれって「夏への扉」が出てくる。遅い遅い。最終的に、ついこの前試飲した「アフターダーク」と同じネーミングの村上作品が出てきて、じゃあこれで。

 

アフターダーク語り部の視点って、神の視点ないし監視カメラみたいな感じ。「シュールレアリスムとは何か」で読むところのおとぎ話とちと近い。うむ。これくらいがちょうどいい。

 

バタイユさんが、「内的体験」で、恍惚としての劇場化を書いていて、人生劇場観と一致していて困る。近親相姦まつわる正しい家族関係としての当たり前を並行的に吉本隆明さんが語る。

 

僕は禁忌だから興奮するという性癖もないが、禁止されているから燃え上がるというのは悪に対する性向なのだろうか。

 

これも一種のコンテンツ的な世界観よな。劇場観というか。

 

 

今日の結論としての存在感の話。

 

僕はあんまり自分の物体的な死についての怖さがない。痛いとか苦しいとかは困るにしろ、自分が場から消えることは特に何もない。

 

存在をベースに考えたとき、僕の物体とは別に誰かの内的世界の中では僕の存在は死んでいるのが常態だろうなって思うと、ここにあえて存在はないし、こういう意味で輪廻はありうる。

 

人は生きていていても死んでいる(殺している)のだから、どれだけ物体ベースを前提にしても否めない。

 

忘れられると嫌な感じがするのはそういうことなのだろうな。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。