受容

 

 

買い出し以外には部屋から出なかった。食料は冷凍ご飯とそうめんを主軸にてきとーに食材を消費。この前のパンケーキに使ったプレーンヨーグルトもきび砂糖(だったはず)で食べた。ヨーグルトを常備するか否かは検討中。

 

いつもはうごうごだが、本日は「もんもん」という表記が適切。漢字を当てるとすれば、「悶々」ではなく「問々」。自己問答かなと思ったのだが、感じを問うているだけで答えを求める動きではないから、「問々」。造語を創りたいのではなく、既存の単語に適切な漢字がないだけ。僕の中の言葉はこんな風だから、精神世界に(既存の)言葉がないということなのかも。感じに当てられる言葉何かという問いであって、言語によって確定されない。

 

さておき。

 

「いつも現実的なところから逃避して非現実・思想に走っていてワンパターンでつまらない。星1つ」

 

自分の文章にこんなレビューを書かれる夢を見た。現実にこんなこと書いてくれる人がいたら、貴重な時間をこんなインターネット界の辺境にわざわざやってきて空気をぶっ壊すことに使う酔狂な人格が気になるはず。これはそういう風にコメントされることが不安なのではなく、自分否定の部分が顕在化しているだけなのだろうなという感じ。

 

わざわざ読むものではないというのは、相手にとって価値があるかどうかは不確定なのに、想像で先取りしている。絶対的な意味での自己否定はないのだが、相対的には自己否定があるというというアンバランス。

 

まぁ、普通の論理で考えて、読みたくなければ読みに来ないはずだし、たまたま辿り着いても、合わなければ2秒くらいで止めているだろうから、観念的な存在を自己否定の肴にするのは間違っている。劇場に登場してない人を創造してあれこれするのはおかしなこと。

 

相性良いなら時間潰しには良い文体的存在なのかもしれない、くらいで良い。

お構いはしませんが、どうぞゆっくりしてくださいなという感じ。

 

なんだか、書きながら読んでいる節がある。

感じは1つであってもどの言語を当てるのか、どの漢字に言葉を当てるのは多様だから、運動を放っておく。こういう意味で自己受容はしているのだよな。この意味では他人のことも受容している。

 

共感できない自分にないものを想像によって埋めて他人の存在を感知することを人間の普通の機能だとしているのだが、どうやらこれって普通のことではないらしい。「優しさ」という言葉が当てられる。ほんまかいな。

 

人間観察も、結局は自分の概念の内でストーリーを形成すること。僕は本を読んでいる人が気になる。で、通常の距離感から活字を盗み見て、その人が読んでいる文字をみて、何の本か推測することをやる。読んだことがある本でもない本でも楽しい。

 

想像力といえば、分かりやすい例で言えば「性差」だろうな。僕には生物学的な月のものはないが、それがどういうものであるかは想像できる。ホルモンバランスが崩れて倦怠になるとかいつもより不調である傾向にあるらしい。だったらそれに合わせて現実的にも動け場良いだけ。ここでバランスを取るのであれば、男性にある仕事に対するプレッシャーか。会社によりけりだろうが、法的整備とは別な常識的空間があるみたいな感じ。

 

書物には自分にはないことが溢れていて、きちんと読むためには想像力を働かす必要がある。答え合わせができないという意味では感じでしかないのだが、概念と想像力の振れ幅が広くなって、自分に対する明度も上がる。自分の存在は別に言葉で決まってないとか。

 

共感的にしか書を読めなくなった現代という話。

ラノベの勃興辺りからそうなったとか。たしかに、人って自分を尺度としてしか書を読んでいないような感じはある。突き合わせてどういう話なのかを解釈するし、ニーズがそうであるならば供給もそうなる。

 

いや、僕はラノベも好きなのだが、自分とは別の世界観として楽しんでいる。ライトノベルというジャンルの区分けも微妙なところで、kindle読み放題で何故か伊坂幸太郎さんとか、シェイクスピアさんの「夏の夜の夢」が入っていて、ネーミングどうなっているのだろうって。とらドラ!はアニメしか読んでないが、文字版も読もうかな。

 

こうなってくると、「共感」が感覚として善きものなのかというのも微妙になってくる。感じは人それそれでしかないのに、感じに言葉を当てて共通項に括れるざっくりなところは如何とも。それで仲間意識が持てるのは言葉の機能ではある。

 

同情より共感の方がマシだと思うが、突き詰めると共感も存在をざっくりとしか捉えていなくておこがましいのでという気分。僕を読んでいる人がこの文章に共感的要素があるから読んでいるとも思えない。え、あるんですか?

 

 

やれやれ。

 

「問々」モードの精神について。

 

他人の時系列に関する意識は共有できないからあくまで自分のことだが、僕には空白の期間がある。もちろん普通に現実的に生きてはいたのだが、無意識に主導権を渡して意識はまどろんでいた時期。

 

こういう風に生活できることができるのか、全然できる。動きを変えない限り、意識は時々自分が主導権を握っているという怠け者の王様みたいに出てくるだけ。それまでに集積されたデータを処理しているだけだが、なんとなく生きている実感はあるという。

 

だから、初めてお酒を飲んで意識飛んだときにも特に違和がなかったのかという解釈。家で鍋パーティーで飲んでいてボーリング場に歩いて行く道中の意識がなく、気付いたら普通に座っていて、周りに聞いたら特に違和は無かったらしい。

 

人は他人の違和を観測できるようには生きていないという証左でもあり、自分の主導権を無意識に渡しても変なことをすることはない。あくまで経験則上の無難を選ぶのだからなんとでもなる。

 

くらいに、何かしんどかった時期なのだろうな。自己否定の権化というか、僕の配慮が須らく排除されていた期。問々の人格はそこを全部投げ込まれているにも限らず、世界に対する否定がない。若干投げやりではあるし、言葉は無駄だと思っている節もある。

 

言葉が通じるのは、共感領域しかない。であれば、なるべく話さないのが吉。

意識的な発話より、無意識的な応答の方が相手の劇場にとって齟齬が無い。

 

アフターダーク」に、言葉が届かないというフレーズが出てくるのだが、言葉では届かないという齟齬があったりなかったり。

 

僕は言葉と自分の存在は一致できないし、相手にとってもそうだとしているから、なんだか変な感じがするときがある。

 

この「問々」の人格が僕のベースのほとんどを持っている感じ。考え過ぎだと言われたり、自分が無いとか言われたり、何考えているかよく分からないと言われたり、なかなか散々な評価だったから引きこもっている。

 

お風呂上りに、この人生劇場で一緒に遊ぶかと聞いてみたら、「うん」と返ってきて、なるほど、仲間外れにしていたから変な感じになっていたのかとなった。

 

この部分がきっと世界に1番優しい。

 

性癖で遊んでも良い(こら)。

 

 

おやすみなさい。

 

僕の文章を読み続けているような変人達に幸ありますように。