否定の限定力

 

 

 

本日の料理画像は映えないため省略。昨日の豆板醤の刺激が強すぎたから、本日は優しい和の煮物。サバ水煮缶と、人参、しめじ、玉ねぎ、厚揚げでシンプルに。副菜は胃腸に良さげな大根を塩もみして水気を絞ったあと、ゆかりと白だしを加えた浅漬け。

 

映えはイマイチだが、味は美味しい。

 

仕事。前残業30分の月初め。楽しんでいるが、あんまり楽しくない感じもある。個々の案件は正直楽しい。パズルみたいな問題とか、イレギュラーなシステムの使い方をする応用問題とか、人情問題は、やや苦手。人情と書いたが、無理を通そうとするのは感情ではあっても人情では無さげ。むしろ人に対して冷たい人が感情篤いみたいな風潮。

 

まぁ良いとして。

僕はもうその段階ではないから、あんまり関係ないのだが、なんというか上のやり方が人によって違うのはなかなか新人さんにはやりにくいよなという視界。仕事のやり方は個々にあって良いと思うが、下の扱いとか業務フローみたいなところは統一させた方が良いな。

 

上げる相手によって同じ案件でも扱いが変わってくるのは新人に無駄な負荷がある。メンターみたいな人が付きっきりの新人時代の先に行けない人が多いのは、誰にでも同じように振る舞えるふてぶてしさか、相手によって変えられる臨機応変さが必要で、能力とは別の資質という。まぁ、人間が働いているのだから人柄が大事なのは分かるが、なんだかもっと効率化ができるような。

 

僕が自分に関わりないことまで見てしまっているからというだけという説もある。

ただ、「学習する組織」に描かれている職場はもっとうねうねしているというか流動的。意見を出し合うとか、知識を共有していくとか。いや、モチベーションがないとどうにもならんが。自分がここまでで良いという人は少なからず居るから、雇用主としてはどう使うかという話にしかならないという現実論。

 

モチベーションといえば、サッカー漫画でぼちぼち読み返している「ジャイアントキリング」。サッカー漫画としては割と異色だと思う。なんだか心理学的でもあり、経営論的でもあり、スポーツ漫画風の人間ドラマ感がある。サッカー選手にとってサッカーは仕事だが、監督が折々選手の楽しさを煽る。楽しんで仕事しているか、どうやったらもっと楽しくなるかという熱を灯すのは外からだったとしても、それに薪をくべて燃やし続けるのは自分しか居ない。

 

いや、僕は社畜でもないから、仕事の話に限定している訳でもない。仕事って物理学で言えばエネルギーの移動だし、人生自体が1つの存在が時間経過で移動していく仕事のようなもの。人生劇場における仕事シーンも1つの舞台でしかないから、スポーツ選手みたいに注目が集まる仕事でなくても、人生劇場に還元しない手はないというだけ。

 

外から見えるような情熱ではなく、淡々と燃料を投入していくこと。

 

相変わらずとっちらかってるなぁ。

 

ジャイアントキリング」で、個々の選手のモチベーションが上がっていく。自分の仕事の自覚もありそうだが、自分が全体の中でどうあるか、最終的には自分の振る舞いが全体に影響するという気付きだと読める。これは責任と紙一重だが、責任部分をある程度補償してくれるのが法人システムだと思われる。

 

あと、全体で疎通を図るというのもあった。忌憚ない意見を交換できる場所を監督が構築することによって、個のありようがきちんと把握されるという循環。触れ腐れる人が現われない。まぁ自分のことがきちんと見られているというのは、プレッシャーでもあり、安心でもある。

 

なんでこんな話になっているかというと、この話の次元って、仕事に留まらない社会全体の話にも拡がるし、個人観というミクロな領域に収縮させても通じるなぁと思索していたから。

 

「学習する組織」で人が成長しようとするとき、信念がブレーキをかけるという下り。「自分は欲する物を何も手に入れられない」というフレーズが出てきてドキッとした。たしかに僕はそういう意味での自信はなかったなぁって。あと、教育によって自分の限界が教えられるというところ。この限界付けによって、自己観が設定されるという意味では一長一短。自分が決まっているのだから、その範疇外は自分の外のせいにできるという意味では楽(本人はしんどいのかもしれないが)。

 

雨が降ることで気分が負に向くって当たり前の感覚として学習していたが、よくよく考えるととても変。

 

手に入れるかどうかになると対象が物体みたいだから、僕はここについてはどうでも良くなった。僕は世界の中で何かを握持するより、把握していく方が大事だから、物体的な自分の肉の範疇ではない。もちろん世界を知覚したり、世界に生きたりするためには肉の器が必須だから、蔑ろにはしていないが。この意味でも楽しんでいる。

 

そうして、昨日の話の続き。

 

昨日資本主義という単語を載せたからか、おすすめ記事の中に資本主義と民主主義の関連性の記事が出てきた。大学生が書いているらしい。勉強になった。経済学部だろうか。

 

ただ、何か変だなという感じもある。なんというか、この繋がりとかシステムは人間の必然としての流れではなかろうよと。歴史をなぞった解釈は自然科学でいうところのメカニズムの解明とは次元が違う。

 

もちろん僕も法律学畑だから、地主が土地を支配して、小作人に小作する権限だけ与えて作物を搾取していたという、一定領域における封建君主制から近代の資本主義によって個人が土地を所有できることになったという歴史の流れは把握している。

 

でも、民主主義ってよく分からない。

ここで言うところって、要は個人として場所を取れるようになったから王様の政治に個人が影響を与えることができるようになったという意味だろうか。

 

民が主導権を得る理念が民主主義であるならば、細分化されただけであって世の中が個人主義になっている訳でもないよな。要は国の中に小さい国がいっぱいあるだけで、どの小さい国の君主も自分の国を守るためにしか主張しないしできない。

 

僕が生きている時代がたまたま資本主義だという世界観だから、これが世界の完成型だとも思えないし、民主主義ももっと進める余地がありそうな気がする。かといって、全部が皆の物という共産主義にも寄っていないし、蝶々みたいな語感の皆自由で良いみたいなリバタリアニズムとも違う。

 

ふつーに歴史を鑑みると、為政者って基本的に恣意性がある。何かを煽って民衆が自分であると錯覚させる。今で言うと、きっと多数決が民主主義だと錯覚させているし、昔だとヒエラルキーで下位をあえて作って、そこに差別意識を芽生えさせることで自分の状況はまだましだという感じ。

 

選挙権というシステムもなんか変な話。手を上げるだけみたいな多数決で世界が決まるというのは綺麗事過ぎる。いや、そこに関与することが間接的な民主主義だっていう学習はあるし、それくらいしか関与できないのが個人であるのは確か。運試しみたいな話。

 

 

僕が想うのは、今の社会の個人主義は、「個人」が強すぎて、他にも同じような個人があるという国交が分断されていること。

 

民主主義の本質は話し合いって最善を決めるというところにあるというはアリストテレスさんがとっくに言っている。自分の立場を相対化して世の中の最善を話し合うとは言っていないけれど。

 

哲学を読むのは楽しいが、どこかの記事で読むと絶対的な哲学観だから、読み味がよろしくない。世界観と哲学が混同できるから正しい哲学があると想えるのだろうな。

 

哲学は別に座右の銘みたいに枕もとに置いて安心できる物体でもないし、否定して自分の場所を確立するものでもない。

 

こんなの全方向の世界の話だが。

否定、無いものとするのはとても簡単。だって、人生劇場において、世界のほとんどは辿りつくことが無いものだし。

 

僕は人生を楽しんでいける人と一緒に過ごしていきたいところ。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。