前提破棄

 

 

週末気分の金曜日。少し遊んで来たが、いつものように1時間くらいで書いたらちょうど良く23時過ぎ。ストレートで負けてきたということ。

 

では、スタート。

 

朝活はフェアリーテイルを読みながら、noteでやんわりヘビーな記事を読みつつ、満月さんが学生時代に受けた講義のレジュメ画像を順番通りに整理していた。「言語機能における空四面体モデル」というタイトル。冒頭をちらっと読んだところ、言語学の範疇で、おそらく言語を階層で区分けしたら、四面体モデルにマッピングできるという論考のような気がする。ちなみに読み方は「くうしめんたい」ということだが、俗に「からしめんたい」と呼ばれているらしい。個人的には空の四面体に言語を機能別に配置していくという意味で後者の方が読み方として適切な感じ。

 

いや、まだ全貌を把握していないのだが、ルソーさんも経験に拠らない直感を重視しているみたいだし。社会契約論も家にあるから読まねば。

 

 

マッピングといえば、かじっただけの深層学習もデータをベクトルとか数列化してなんやかんやするみたいだし、微積分にもそういう感じがあって、視点が近いのではと勝手に道中を楽しんでいる。

 

さておき。

仕事は平和。厳密に言えば某波が来ていて人は少ないのだが、僕が気にするところではない。僕がひそかに有能だと思っている新人さんは僕の仕事を減らしてくれたし、なんというか、仕事に対する精神がかなり気楽になっているほうがでかい。ミスをしないとかこの人苦手だなというようなミクロな世界で働いていない。

 

個人的にずっと想っているのがベテランの人は自分の仕事ばかりせずに、手が空いて他の人が係っている案件で正解が分かるのであればどんどん循環すれば良い。ただ、システム上無理なのも分かる。僕はしれっと上司以外の古参の先輩とかお姫様先輩に聞いて知恵を拝借している。あれ、案外世渡り上手なのか?

 

積極的にやる気をアピールして聞きまくるけどもなんら身についてないということはないし、無意識的手練手管でうまいこと居着く。下より自分の方が有能でないといけない上司が居る職場とか、全てがマニュアル化して融通の余地がないとか、同列の上司のやり方がそれぞれ違うのは良いとしてもそのやり方が相反しているとかでない限り、どこでも働ける気がする。求人情報では読み取れない情報だが。笑

 

 

哲学って抽象的なことと思わせて、結構実践的なことを考えるものという説。

何を実践するかというと、人間そのもの。

 

 

夜活。2割引のお刺身がメインだから調理時間は省略して洗い物してすぐさまお風呂にはいる。出てきてはてなブログの方の記事を読んだ。

 

又吉さんの文章が良いと言っていたのは本の師匠。まだあんまり読んだことはないのだが、そのうち読む前に、中村文則さんの「何もかも憂鬱な夜に」が先かもしれない。

 

記事の中の引用文で、人間とはなんぞやみたいなことは思春期で卒業するようなことで、大人になったらそこに悩んだことがどうでも良くなるみたいなアドバイスに対して、人が悩んでいることに対してどうでも良いと一蹴するのは良くないよねみたいなニュアンスの言葉があった。

 

個人的に年齢的に大人になってみて、たしかに現実的何某も大事とは思う。だいじというよりおおごととして。ただ、この大人になって「何をおおごとにするのか」という基準自体が、人間とは何ぞやという概念をもとに構築されているから、ここをスルーしてしまうとその後の人生の基準が自分にならないのだよなと思っているおっさん期。

 

筆者と同じように、僕もずっと退場しなきゃと思っていた。想念の結果は一致していたとしてもきっと細部は違う。僕のは人は椅子を取ることで生きている、場所を取る気概がないのであれば退場すべきという強迫観念だった。希死念慮は居場所をいちいち確保しないと生きていけないという概念が人の当たり前だとしたら、僕は合わないということであって、死によって自分の生を感じるみたいなことではない。希死念慮していた割に手首が綺麗。

 

 

人間とは何ぞやとか死すべきなのに生きていかなければいけないのは何ぞやということはずっと考えている。でも、この思考は今日の夕飯何にしようかとか、明日何をしようかに比べて高尚でもないし、なんなら中二病でもない。

 

哲学が実践である意味は人間とは何ぞやの暫定的答えになる。

人間は、世界を概念によって解釈(食べるでも良い)していく存在であるということ。

 

人間が死ぬのは、物理的な個体の消滅の概念には留まっていない。そういう概念を創ったから人は死ぬことになる。言葉上は固体の消滅と連動している風だが、そんな人が自分の消滅後の事情が気になるっておかしいし。

 

こういう意味で、言葉は言葉だけに留まってなくて、実践になる。

言葉で表現できる世界が当人にとっての世界の端っこみたいな意味。その端っこってなんじゃろなと考えてきたのが哲学者なり、詩人なり、作家なような。

 

世界が主観的であることをスルーしなかった人々。

 

ちょっと脱線して、昨夜さんがなんか悲惨。

フィクションだった方が良いくらい。お互い反発している世界に居て何が楽しいのか。関係って、お互いの世界線で出逢ったことがありがたやという感謝が根にないと自転ばかりで独楽ゲームになる。

 

発現と叙述がきちんと記録されているとすれば、お互いがそういう言葉を遣わないといけない時点でお互い下心があるから我慢しているだけということになりそう。

 

普段てきとーに垂れ流している言葉によって世界観が規定されるのは、言葉は伝達しながら世界観であるということなのだろうな。

 

どうでも良いが、この繋がりで、僕は自己を蔑ろにしている節があるから、自分を守らないといけないよってアドバイスしてくれた人が居た。ありがたいことだが、当人としては自己の存在を意識で守らなきゃいけないような弱いものだと見ていない模様。

 

守るという概念には、対象が弱いが付着している。

 

満月さんが弱っているときに割と放っておいているのも、弱いと思っていないからかもしれない。

 

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。