存在

 

 

ベルグソンの「笑い」を見つけていないのに笑顔の話から。

 

「色彩を持たない、、、」で、つくる君が沙羅さんと別の男の人が歩いているのを見かけたシーン。彼が哀しくなったのは、自分に向けている笑顔よりも嬉しそうだったとのこと。ここから、抑制のない笑顔について考える。

 

この解釈も両端で、抑制をかけなくて良いのは、気安いのかどうでも良いかは外からは分からない。どうでも良い人に対して逆に親切に振る舞えるということもありうる。仕事場でのお客さんとか。逆に大事にしたい人には緊張してしまって笑顔がぎこちなくなるというか、整って見せたいということもあるし。

 

これらの笑顔はどちらも「笑い」というペルソナ(見せる仮面)という節。

 

ペルソナについて思索が起こったのは仕事場に上るエレベーターで、人が怒っている姿にちょっと笑いがこみ上げて来そうな感が出てきてしまうのは、なんとなく演目的なところがあるからだろうな。不謹慎極まりない発想だが、社会性が付着していない怒りってきっとないよな。

 

 

そうして自分の笑顔。にっこりペルソナも多分できなくもないが、マスクで解放された節があるのは、僕の素朴な笑顔がとても不細工だから。抑制がなくてくしゃくしゃになる。適切な言葉があった。破顔。笑顔を見せようという社会的な仮面ではなく、笑うときはてらいなく笑っている。

 

「お前の笑顔はやばい」発言は高校時代の硬式テニス部の同級生のもので、歴史の遺跡に埋もれて解読不可能かと思っていたのだが、周りに合わせた笑いではなく、こいつほんと事象に対して笑っているのだろうなというのを高校男児の男心が感じたのかもしれない(笑)

 

もしくは僕の破顔についての隠れファンからの情報提供があったのかもしれない(妄想の領域)。いや、僕は小学校はなんとなく陽の者だったが、中高は基本的に陰の者で、注目を浴びるような存在ではなかった。特に整った顔でもないし(まつ毛は長い)。まぁこの話は何処にもいかないのでここまで。

 

 

どう見えるかなんてこちらからは見えなくて、ただ、相手の表情を鏡として反射するだけ。自分の顔がどう見られているかは、近い人の顔で分かるような。

 

見ているということは見られている訳で。

 

これって、文章的存在でも同じ。文章は舞台の上に立った演技体みたいなイメージがある様相。なんだか辛辣なフレーズが出てきたのでカット。

 

 

仕事場では硯さんに当たって良かったとか、プロがやっても無理なら納得とか、変に信頼を寄せてくれているお客様がおり、この僕の存在とは何ぞやという感じになる。なんだか嬉しくはある。

 

僕は決して良い人ではないし、ここに気遣えみたいなメッセージを発されても阿らない。ただ、自分が無知なのを知っているから、フラットに相手を捉えているだけ。尊敬でもないし感謝でもない、単なる尊重。

 

でも、そういう風に僕を捉えない人には貴方の指標で返しましょうということになる。

相手によって自分の領分が変わるというのはこういう意味であって、特に操作している訳でもない。出逢った人々が諸々自分の人生劇場を踏まえたアドバイスをしてくれたが、相手の存在が希釈なことを常々不思議だと思っていた。もちろん、全ては自分に還元されるべきというのが、現代の個人主義な世界観だし、他人を登場させると個人情報の兼ね合いもある。

 

でも、他人がきちんと存在感を持って登場している文章って小説以外にはないような。

 

この辺り、ハイデガーさんが考えていた「存在」だろうな。

 

存在がふんわり自明なのは、考えなくても良いように学習されているから。

存在という言葉に当てられた中身はブラックボックスでも滞りがない。

 

ハイデガーさんのことはなんだか好きだ。

哲学とは問いかけることである。とても真摯な人。

 

言葉は存在かという問いかけ。

これはかなり難問というか、個人それぞれが決めないといけないという意味で共有できないこと。

 

そもそも存在とはなんぞやということから入らないといけない。

物体と観念とどちらが存在として重いのか。

 

たぶん、人にとって一番存在感があるのは自己の存在であるという自明がありそう。

ただ、人は肉体と精神のブレンドの存在であって物体からはもともとやや離れている。

 

このもともと時空がねじれている人としての存在と言葉の関係とは。

 

 

言葉でしか疎通できないというのは、ほんまは嘘だとしている。

文章がスキ!されたところで、通じているとは思えないし、いっぱい集めている人の文章がその人の存在とも味わえないし。

 

こういうのは何の標にもならない。

 

でも、文章書いている人も現実の私生活があって、そこには別の存在があるとすると、その日記とかポエムは別存在として読むべきものになる。はて、存在とは。

 

仮想としてのインターネット世界に存在するための仮想の文体って味わいとして美味しいのかということを考える。そんな薄味の存在味わってどうなのだろう。

 

そういえば、考えることについても考えていて。

 

アウトプットはインプットも兼ねるもので、自分とは無関係なことを考えるツール。

関係があることは別に言葉を当てなくても良いし。

 

ちなみに僕は、この文章体と現実の存在は一致させるようにしている。

インターネット世界で良いようにも書かないし、ネガティブもやめつつあるし。

 

ほんとの創作は自己の存在とは乖離しているのではとう説があるのだが、やってみないと分からない。

 

言葉の存在性は、過去でも未来でもあって、ややこしい。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い現実を。