明日は明日のなんとやら

 

 

掌を平らな面にべたっと置いたときにむにゅとはみ出る小指の舌の肉。こんなに肉厚だったろうか。キーボードで打つ時の小指の動きにつられて付いたのかもしれないと言うと、私に似せて来たのだと返される。どちらでも良い平和な世界線

 

仕事では先生と先輩方がバチバチしている。先生、こんなに激しかっただろうか。もちろん当たり散らすことはない。ただ、ヒアリングの粗というか、その隙間を丸投げしてくるなよという意図が読める。結局のところ、仕事における世界観の話で、なんでそんなことを聞かれているのかもきっと相手は分かっていない。

 

仕事は目的を持って行うものだし、何かが気になる、何かをしたいというのは手段でしかないから、手段を聞かれてそれに回答を与えただけでは、目的に対する根治にならないし、そこに使われた業務時間は無駄でしかなく、無駄なことは避けるべくという話。たしかにQ&Aみたいにぽんぽん返せるのは考えなくて良いから楽だが、その仕事の仕方だときっと常に減っていく知識しか増えない。

 

なんでそれを知りたいのですか?

と問われて、それが明確に言語化できる人はきっと少ない。むしろ非難されているように聞いてしまう人の方が多いのかも。お洒落な先輩が結構そんな感じに読める。僕も仕事論では先生に賛成で、目的というか利益に適うように動くべきで、なるべく無駄は排した方が良いと思う質。そこに奉仕するのがマニュアルでありシステムなのだし。

 

僕がきっちりしているのかというと、やや怪しいところもある。全部が全部検証できるわけではないから、あとの隙間は過去の情報からの類推とか推定になる。完全な見切り発車との違いは微妙なところだが、自分を疑いつつ、確証はなくても決断するのは、「まぁ良いか」とは違う。

 

先生とはちょっと違うなと思うが、合理とか論理の扱い。多数に通じるものは確かだとしても、そんなに確かなものではないよなって。

 

仕事はそういう遊び場。

日常に目的意識は特に要らないと思っている立場。そもそも、目的って誰かとの共有が前提にあるから、いちいち目的化していくのは不要。

 

そういえば、書くことに気分が乗らないという次元がとんとないな。

 

はい、前置きがやっとの終わり。

 

 

さておき。

 

論理はともかく、合理的判断は日常的にやっているのだろうなという感じ。

仕事が終わって駅ビルから駅に行く前の空間で人がやたらと多かった。服の濡れ具合、傘を手に持っている、とか諸々の情報を総合して、おや、これはきっと外は雨だろうなと判断される。僕の意識がしている訳ではない。

 

案の定雨だが、こういう判断って、あまりに当たり前過ぎて、風景みたいな見え方なのだろうなという想像。雨が降っている様を実際に見てないのに状況だけで判断できるのは立派な思考の一部だと思うが、経験的な風景にするならばきっと世界が受動的にしか見えなくなる。

 

これを論理的に語るとすればと考えると、色々ある。隠れた前提では皆帰宅時間だから、普通は駅ビルの流動的空間に滞留することはないとか、複数人の服が濡れている状況は日常ではイレギュラーが無いと起こらないとか。言語で可視化しようとすると合理と論理は重なってくる。

 

日常と非日常を判別するのが得意なのが無意識のはず。

無意識の目的は生命の維持だから、レギュラーな事象には焦点を当てないし、イレギュラーは不協和音。このイレギュラーはほとんどが精神の領域で、あまりに突拍子もない生命の危機には反応できない。本日訓練でこの地域、緊急速報メールの異音が鳴り響いていたのだが、誰もびっくりできていなかった。

 

なんだっけ、ちゃんと人にはそれぞれ合理性も論理性もあるという話。

それが具体的な相手に通じるかどうかはまた別の話。

 

日常であって、非日常でもなく無関係の世界に対する視界は、無意識氏では捉えられない。無意識が見逃す光景を意識で掴み取るしかない。同じ光量なのに視野の中で明暗があるとか、物があるではなくどう見えるかとかは割と無駄でしかないのだが、言葉ではない人の意図って眺めようとしないと読めないし、意識で見ることもできない。

 

僕は生活劇場の中で、道ゆく世界を眺めるのが好き。人間だけなら人間観察が趣味で良いかもしれないが、葉っぱとか鳩ぽっぽとか田んぼの動向も含まれるから、ライフワークとして世界を眺めている。

 

色が不自然だからか、男女問わず髪色を変えている人というのが良く見える。自分の肉の自然を加工するのは、なんともエロティック。フェチだから見ているのとも違う。同期はショートカットで茶髪でそそりそうな型なのに全然惹かれない。なんか荒れているからだろうか。どこかの界隈から怒られそうだが、きちんと自分で楽しんで加工している風な人を眺めるのが楽しい。もちろんまじまじとは見ない、車窓(歩窓)。

 

ピンク髪とかカラフルで良き。

 

共通項として気になったのが、黒髪だがインナーカラーが金髪めの明るさで、その筋で髪を括るというスタイル。流行っているのかどうかは知らないが、アクセントがあって良いなという眺め。たぶんそういう意図でやっているのだろうし。

 

ファッションの流行も知らない。

 

ただ、人の存在って外から見れば加工できる領域も含まれているし、内からもそうだとしても、きっと本質は加工できない不動の領域なのだよな。瞬間もあるし、一生もある。

 

僕は一生遊び人っぽい。

読んでいる小説で、主人公にとって自由時間はすなわち女だとフレーズがあってうわっとなりつつ、僕の自由は独り遊びだと思われる。

 

「学習する組織」の心理学的な考察が楽しい。自分のブレーキがどこにあるのか認識できないと進めないとか。自分の信念を可視化するってきっと自分をずっと学習し続けないと顕われてこない。

 

自分としての存在で世界を見るのではなく、自分の存在を見るという内観は、自己問答でも経験則でも不可視。この辺りは現象学のメルロポンティさんがあくせくしている。「最終講義」の河合隼雄も、人は生きているのだからボタン1つで動くことはないと語っている。僕の体は僕の意識で動くものではないとしたことによって意志と肉体の従属関係から離れた。

 

昨日の日記が難しいとのこと。

たしかに、資本主義とか民主主義って中身が空虚な言葉であって、単語自体には意味がないから言ったもの勝ちみたいな雰囲気。この単語を使う人で、定義を先に書いてくれるような記事はきっと無い。言葉で定義付けられる概念ではなく、検証不可能な現象という読み味なのだが、専門家の見解はどうなんだろうな。

 

僕としては文学も相当に難しい。ただ、シュールレアリスムはきちんと言語で定義してあるような感じがあるから、割と分かり易いかも。

 

哲学が難しいのは、前提にある土壌が均されていないからだと思われるが、ふつーに考えると、具体的な人間関係もさほど変わらないような。

 

明日は悪だくみみたいな世界線で遊ぶ。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。