登場人物

 

 

夢に中学校時代に同級生達が住んでいた団地が出てきた。団地って住んだことなくても色々面倒だろうなと思いつつ、ここの立地はすぐ下に川があるし、中学校も徒歩15分くらいで、なかなか良いところ。ちなみに我が家から中学校に行くためには自転車でも30分はかかる。そして帰りは自転車で帰っても2時間弱くらいはかかっていた。なにせ山の上だから、向かうだけならとても簡単(それでも30分以上)。良くもまぁあんなところで生きていたものだ。

 

まぁ場面だけ流用して同級生は居なくて、何故か某アイス屋さんがあった。潜在意識の中には時間も空間もなく、無秩序に詰め込まれているのだろうなと夢を見る度に味わう。

 

二度寝を止めようと試む。でも鏡を見ると目が充血していて、あれ、寝たりないのか。と、30分くらいの二度寝

 

寝ることが至福というのはない。ただ、世界を食べるという意味では、潜在意識に詰め込まれた世界を文字通り反芻する行為とも言えそう。夢日記はいちいち書き取ってない。

 

そうして朝ごはん(読書)タイム。「ジャイアントキリング」うんまい。そして、美味しい人を見つける。いつの間にフォロワーさんになっていたのか。「チャーハン」と「炒飯」の違いの伏線が最後にぴったりハマる。小気味よくて微笑んでしまう。

あと、僕もツーブロックの機能美は好きで、刈り取り過ぎたいかにもなのは宜しくない。行き付けの理容院の理容師さんはここのところ上手くやってくれる。紹介したいところだが、生活圏が違うだろうからどうにも。

 

ここでしばし、チャーハン考。

たしかに家庭用のガスの火力では炒飯にするのは難しい。だから米を何かでコーティングして先に分かれるように仕向ける工夫が必要。よくあるのが、まず卵かけごはんみたいに卵でコーティングしてから炒める。黄金炒飯は家庭用の火力でもぱらぱらする。ただ、これだと卵感満載で、炒飯ではないという反論もあるかもしれない。そこで、どこで見つけたか忘れたが、ご飯を炒める前に油をかけてコーティングするという工夫。1回やってみたところ、なかなかうまくいった。サラダ油でやると不健康っぽくなるので、オリーブオイルとかごま油でやるべし。

 

炒飯(チャーハンでも可)食べたくなってくる。

 

一頻り食べたり思索したりした後、出勤。外に出ると風がやたらと強い。こんな日は目がでかいと不利だ。何かがやたらと目に飛び込んでくる。防具(伊達メガネ)を装備すべきだった。なるべく目を細めてまつ毛の鎧に任せるが成果は芳しくない。ばさばさは見かけ倒しかよ。

 

仕事は通常営業。なんだか眠い。覚ますに左手で文字を書く練習をする。時折、お絵描きも。左手でもまっすぐな線はある程度引けるのに、右手でも明朝体のような文字が書けない。もはや、自分がそんなことを重視していないという結論に至らざるを得ないな。イマドキ手書きで書くような場面もほとんどないし。ただ、文字を書くときに使う筋肉とか神経が、左手で書くときに剥き出しになって面白い。左手だとすぐ疲れる。

 

もっと仕事上の発話もなんとかなるのではないかという感じ。

神経を使うところが違う。そうして、賃金以外に何か持ち帰るところがないと意味がないともしている。だって、人間だし。

 

そんな感じで帰宅。

 

今週唯一の残業ないデーだからちんまりと時間がある。ツムツムで遊ぶ前にある程度追って来た演劇の最終章かなというのが再来週にあってその予約をする。予約のためにその後使わなそうなアカウントを作成しないといけないというのを朝ごはんタイムで予約しようとしたときに気付いて、この時間では無理だとなった。

 

テーマが面白い。「争い」と「あの日」が何故か同列になっている。個人的には時間の横軸である「対立」と、縦軸である(世界線の)「分岐」を交錯させる試みなのかなと解釈しているが、演出家さんとは話したことはないし、特に話す必要もない。この人が提供してくれる劇場の空間が美味しい。たぶん緻密に作られている。計算なのか直感なのかはきっと未分離で。

 

いくつか見た演劇では、舞台の現実的な空間ではなく、劇そのものに傾注している。まぁこんなのきっと当たり前で、演じる空間を意識して色々遊んでみるのは異端なのかもしれない。あと、音の扱いとか。声を音として扱っている部分もありそう。

 

名前は朗らかなのに、何か鋭い。

 

最初に観た演劇が開かれていたのは、僕の運勢でもあるのか。

 

 

演劇論なぞ知らないが、どう感じるかは自由である。

完璧な演技になると、映画に近くなるよなぁとか。

 

とりあえず予約はできたから、次は高速バスの予約。帰りは融通利く電車で帰るが、時間が決まっているならバスで行く。たしか3時間くらいだったか。3時間の移動なぞ散歩と変わらない。夜行バスは移動している感がないから好きではない。

 

 

 

やれやれ。

 

そういえば、昨日の日記、何か良いこと書いたっけ。人の反応に意図があるのではないかというのはおこがましいことで、人のことは距離の近さ遠さ問わず不可知で良い。なんだか面白いなという意味では感謝すべきところだが、感謝はしるしというより循環させていくような得体のしれないエネルギー。

 

まぁ、自分が登場してきて嬉しいという向きは分からなくもない。

ただ、特に人が集まらない僕の文章なんぞに登場して嬉しいのか、というのは疑問ではある。

スキが集まらないのは、文章が面白くないのと、移入できないからというのは一応分かって書いている。

 

この得体の知れないエネルギーというフレーズは、ハイキュー!!の谷地さんが大会で3試合する選手に対してなんじゃこの化物たち、という表現で使われた言葉。外から見れば分からないエネルギーを摂取して動いているような人はいっぱいいる。

 

僕はどうだろう。外からこの文章を読んで、バイタリティとか、ストイック性を読み取る人は居るかもしれない。ただ遊んでいるだけなのに。

 

人のことは知らないから、僕と同じように動けば良いとはならないし、僕は日向みたいな人物だとしても、決して陽キャではない。

 

自分がやっていることを他人にもおすすめできるという精神ってなんなのだろうな。読書はした方が良いみたいな風潮も、本を主食としている僕でも肯けない。どれだけ本を読んでも読解力って特に育まれないのではという説。そんなことより、自分の世界にとって何が相性が良いのかを試行した方が良い。文字情報の捉え方って千差万別だから、書かれている言葉だけしか読めないのであれば読みやすいものを読めばよいし、おそらく読解力が対象としているのはこの領域でしかない。

 

料理で言えば、レシピの材料が分かるという水準。料理になるとこの水準はかなり難しいのだが、外食で出てきた料理に対して、何か使われているのかを思考する人も珍しい。恋人さんがそんな人でちょうど良い(惚気)。

 

言葉に対してもわりと同じことで、その言葉が発された意図とか意志を慮れるのは読解力ではなく想像力の話なはず。言葉を文字通りに読めるかどうかが読解力。でも、普通に考えて、自分が発している言葉が全て広辞苑通りの意味であることなんてない。

 

え、そんなことある?

でも、外の人ってそれらしく話すよなぁ。

 

文章ではそこに倣っていたとしても、滲むものはある訳で、その滲んだものを捉えるのは理性ではなく直感。直感がどうやって鍛えられるかになると、それは当人の方法論になる訳で、誰にも習えない。学習してなんとかなる領域ではないし、外的な環境より、人の方向性を決めているのはこの非言語領域な感じ。

 

個人的には、読解力より、言葉に対する味覚を鍛えた方が良い感じだが、あえてするべきともならない。言葉を事実とする世界観の方がきっと楽だから。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

善い夢を。