無関係

 

 

 

今日もたくさん夢を見たけれど、時間軸系のSFファンタジーが一番面白かった。予言とか占いとかで未来が現実化する確証度が変わる。何かサプライズ的な話だったけど、設定が盛り込まれ過ぎていて内容は覚えていない。

 

なんだかつぶやき場で、モテそうな若い男の人が持論を展開していて、受動的でも恋愛できる程のスペックがないから鍛えたとか、女性は女性であるだけで受動的でも恋愛できるみたいな話を見ていた。この男の人最後の友人と似ていて思想がちょっと気になっている。個人的にはその輪では面白くはなれないと思うのだけど、僕の世界と軸がちょっと違うのかもしれない。

 

そういえば、確かに姉も大学に入ったら恋人くらいできるのが当たり前だって言っていたな。男性と女性では関係での許容度が全然違うのか。と、今更思った。僕はあまり意識したことないし、なんというか、まぁまぁ透明だったから。しゃべらなくても済むし、遠巻きでマスコットみたいに捉えられていたし。

 

自己観がちゃんとしないと人格ではないという価値観の僕は自分が場の添え物でしかないと思っていたのだけど、そうでもなかったな。ほんとの僕はもともと誰かからの自分を気にしてなった。僕を決める人と付き合っていく必要がない。

 

フロムさんの本で、自分自身で自分を制限するというフレーズがあってなるほどなと思った。この自己制限は社会的性格への矯正なのかと思う。

 

その前に。

 

色覚の本で、日本の「青」と「緑」の混同の話があって面白かった。言葉と色の関係。日本の言語表現では緑がなくて、緑が青に含まれていたとか。青信号も英語ではグリーンライトだとか。

 

で、言葉によって細分化された色で世界の色が変わるのか。植物の名前で世界の観え方が変わるから、名前によって世界を観ている人にとっては変わるのかもなという次第。僕は、名前が付いていない色なんていくらでもあるから、それに名前が付いたから特別になるということはない。

 

色は見たままの色でしかないし、名前を知らなくても草は草だ。

 

というところから考えると、やはり僕は世界を言葉で見ていない。何で見ているかというというと、割と見たままだし、観念で見ている訳でもない。手触りでは見ている気がするけど。

 

 

ところで、好きな人に対する好きは全く変わらない。やたらとかわぇぇなとは思うけど。

 

で、妄想的会話のシチュエーションを考えていた。話すのと聞くのとどっちが良いですかと聞いて、おそらく聞く方だろうなと想像し、じゃあ話題で最初に考えたのが言葉とはだった。僕はほとんど人と話し合いたいことなぞないのだけど、この想像的場だと自分の見解ちゃんとあるんだなと。

 

言葉が理性で箱なのは、生粋の創造者・創作者だ。演劇が建築物に近いという演劇入門のフレーズとも通じる。好きな人の文章、確かに一生懸命積み上げた痕跡が見える。日常でもこれだとややしんどいだろうなと思うけど、この人が発した言葉は現実でも絞り出したものだろうなとすると、原稿用紙1枚分にもみたない会話にもきっと箱があるような感じ。全然人のことをどうでも良いと思っているような人ではなかった。その箱はちゃんと受け取っています。

 

そういえば、僕は現実的に笑っていなかった気がする。次と次の次で最後な感じがするから、この人に対するほんとの顔は見せて置かねばと思う次第。

 

ここまで突き詰めていない、人の言葉論で言うと、言葉は自分の発露なのだろうなと思う。定型句で語られる自分が自分であるというやつ。確かにこれも理性ではあるけど、僕はここで語られるその人がほんとにその人かって疑う。

 

人の言葉を疑うなんて、人でなしだという見解もあるけど。客観的な判断に置いて人の言葉は証拠の1つでしかないというのが英知としての裁判。言霊に流され過ぎるというは、まま分かる。人って自分の言霊にも流されるし。

 

自分が発する自分を自明だとする言葉ってまず自分を規定する。自分が自分を決めていると思わせるのが現代社会らしいし。

 

 

言葉にならないものがあることに対して、疲れていると言われたても気にしなくても良いような。これも1つの世界観で、言葉がないとその人が見えないとか分からないとか。昨日までそういう感じだったけど、なんか違ったなと思った。

 

 

僕は創り手でも世界を言葉で構築している訳でもない。僕にとって言葉は、自分から汲み取った一瞬でしかない。箱理論を展開したのは、僕以外の言葉の使い方を見てそう考察して、言葉はそうなんだっていう段階があっただけ。

 

好きな人はやたらかわえぇ。

 

今日出てきた言葉は、「疑問がなければ知恵がない」。

 

考えるためには情報が必要だけど、その情報への目的の話。法律書とは全然対話できてないなと思うと、ここに義務感があるからだろうなと思い至る。僕は知識は欲していないけど、知恵は欲している。知恵は知識の先にあって、知覚のもとというか判断のもとになるもの。

 

自分の判断が常識的なものだと思う人ほど他人に攻撃的になれるというのを何処かで見た。判断が正解なんてことは何が正解かという定義から始めるべきだけど、自分が正解だからこういうのは無理だろうな。

 

今読んでいる本で、今の境遇を都合良く解釈できるから場はなんでも良いと言っていて、僕もそんな感じだと思った。苦しさのほとんどは外に在るものではない。

 

でも、その内側をどうすれば良いかは傾向ではないから、僕には何とも言えない。トラウマを開示された時、この人達にアドバイスもしないし同情もしなかった。

 

同情は主観的なものでしかないという倫理観はいつになったら生まれるのだろう。自分の感情を浮きだたせるために世界を使っているだけなのに。

 

フロムさんがいう広義の宗教も面白い。社会的性格とほぼ近いのだけど、何か外に正解があるという感じ。自分の外から来ている正解に殉じているなら、信仰と一緒よねという話。何が自分の正解かというのも、文化的な傾向の中にしかない。

 

そういえば、手触りの話。

 

便宜的に言語にしているだけだけど、人の言葉にはこういう感覚が付きまとう。自衛とか迎合とか、癒着とか。

 

新刊枠で読んでいる人は死の手触り。なんでかと思ったら3.11に近い人だったのかと。好きな人の文体もこれに近いのはなんでだろう。

 

結論。僕はもともと自分にとってどうかで世界を観ていないから、主観的世界観の人とはずれる。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。