客観か主観か

 

 

こんばんは。

 

秘密の共通項に家の鍵を隠して出勤。

結局鍵は自分で回収した。

 

家の鍵と言えば、鍵を無くして付け替える費用もないという底辺期に、割と長期間鍵を開けっぱなしで仕事に行くということをしていた。なかなか書けないようなところを生きている。

 

一週間もやしだけ生活は流石に空腹だったか。今だったらもっと楽しんでやりそうという感じからすれば、おそらく精神が暗黒時代だったと言える。ほとんど中身は変わっていなくて、それを捉える自分が違うだけ。

 

自分のことくらい何があっても笑って眺めれば良い。

 

自分が自分のことを笑えるのであれば、その余白に色々やってくるし、勝手によしなになってくれる。運命論ではない、もっと自発的な話。

 

なんだか本日は断片的な文章な感じだが、よしなに読んでくだされ。

 

 

さておき。

 

朝に戻って。朝ごはんをがつがつ食べる。色んな考え方があって、色んな文章がある。僕が何故フェミニズムを苦手なのかがちと分かる。この考え方って、女性性を過去から未来まで引き延して1つに捉えるスケールなのに、その基準が今の当人だから矛盾しているというか、自分の主張が全体の総意だってなるところ。その考え方があっても別に良いとは思うが、それを受け入れない女性が居たとしても、思想の中では女性の一部だから、なにか辻褄が合わないことになるのだよな。

 

僕の言葉では引用できない下世話なフレーズがあったが、それに対してほんとに何も思わなくて職業にできる人を認めるのが個人主義であって、相容れなくなるのは当たり前のこと。

 

これは別に批判でもなんでもなくて、なんとなく傷付いた自分を女性全体のことにすり替えている補償行為みたいな節が読めて苦手。べつにニズムに迎合しなくても人は尊重できるし。

 

僕は、尊重することと大事にすることと保護することは別事だとしていて、甘やかしたり補ったりするのも何か違うかなという感じ。なんというか、もっと貴方は大丈夫だよという雰囲気というかメッセージというか。

 

具体的に何かするとすれば、最強なのは親が子に行使できる監護権みたいに、自由を制限して生命を維持することに傾注するという完璧な保護。自由にはリスクがあるから、保守的に生きるという傾向はそういう思想の系譜なのかもしれない。

 

なんでも良い。

自ら退場する気配は全く無くなってしまったが、命が至上の価値があるという世界観にはちょっと疑義ある。人間の命が物体に留まっているとすれば、退場してしまった作家とか学者が尊重され続けている意味が分からない。

 

それに、人生劇場において退場していった具体的な人が、退場したから価値が無いとはきっと誰も言わないし。

 

この「大事さ」って、きっと自分の意識とか存在が途切れてしまうことに対する危惧からきていると想像できる。この文脈だと僕が途切れたとしてもしばらくは勝手に誰かの中に残っているだろうなと思う訳で、肉体の存続とはズレている。

 

文化人類学の本で、人とチンパンジーの違いというのがあった。チンパンジーは確かに試行して新しい方法を生み出すことができるが、それは継続されない。人間は言葉によって方法を外部媒体に保持できる、みたいな。言葉自体に系譜があるというのはこういうところ。

 

 

もう1つ面白かったのが、世界は自分の意識によって構築されていて、他人はゾンビであるということを深刻につらつら書いていた記事。SF的に見えて、個人的にはある意味では当たり前の話という感じ。本当に物理世界がないのかなると不可知だが、世界の印象は自分が決めているのは確か。この確かさは基本的に他人とは共有できないから、共有して話し合っている時点で何か変だ。この世界観を共有して話し合っている個々は相手のことをゾンビみたいに捉えていることになる。

 

個人的な世界観だと、笑顔は好きなのに、職場の新人さんの笑っている声は乾いている感じがあって、なにやら耳に障る。反応とか自衛での笑いだからなのかな。自発的な笑いは音量が小さくても良い。

 

こういう世界観は、客観に寄り過ぎていた位置を修正してくれる。

 

法律学の資格を挫折した人物だが、知識ではない世界観としてもう一回読もうかなと思える。法律の条文が要件と効果に分かれている意味ってなんなのだろうなと感じていて、本日、効果の方が本質なのだろうなとふと思う。ある評価とかを下すということがあって、その条件として、こういう事実があればという逆算的に要件がある。まぁどちらが先なのかというと微妙なところ。

 

あれ、これって、人の思考の仕方とほとんど一緒では。

外の物事を判断するとき、なおかつ、その判断を他人にも認められたいときには、こういう因果を言語化して共有するのでは。

 

僕は私的関係ではあんまりこういう意味では問答しない。ルール付ける必要がないし、言語とか行動の前に循環があるし。ただ、外に向けての理論武装としてはこういう視界は大事だし、人と話し合うスタンスで実は自分の見解を伝達したいだけな人は、こういう客観的な視点がないのかもしれない。

 

やれやれ。

 

最後。

 

主観的世界の話で、「学習する組織」が面白いことを書いている。

自己マイスタリ―だったか、良い結果というビジョンを見続けるのはとても難しい。なにせ、その結果についての過程を考えると悲観的な見解が無限に浮かんでくるからという話。

 

この悲観的な世界観が経験則であって、ビジョンを捉えるのが主観の遊びなのだろうな。それに対してどうやって組み立てるのかを思考する前に、良き塩梅の世界を具体的に捉えられる。見てないけどその世界に居るという創造。

 

もちろん、これはポジティブでがつがつあれということではなし。

 

はい、時間オーバーで怒られる。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。