すっからかん

 

 

世の中に現金を放流していったんスッキリした休日。この空白に残る欲はなんなのかという問答。勝ったら勝ったで楽しむが、これはこれで自分の本質が剥き出しになって楽しい。不安みたいなものは、「学習する組織」でいうところのメンタルモデルの惰性のようなもので、あんまり動じていないらしい。もちろん、今後の調整はあるが、それで不自由を感じてもいない。

 

見方によっては破綻主義のよう。この世界線だと、ある程度勝手に貯まっていたものが空っぽになっても自分のメンタルは大丈夫なのかという運試しならぬ精神試しだったのかもしれない。なんというか、全然不安定にはならないし、むしろ溜りが綺麗になったまである。ここで大丈夫なら、もう大丈夫過ぎる。

 

割といっぱい当たっていたから、現状でプラマイ0くらい。もう1人で行くのはえぇかという感じ。勝ちそうなところにいちいち反応するのが疲れる。なるほど、だからエヴァンゲリオンの新台が人気なのか。主観的にそう思っても体が求めるのが享楽的なところ。面白いよな。合間に適度に遊びましょうって注意文を投げつつ、遊び場として成立している。本音と建て前。

 

この流れだと、糖質もそういう忠告文入っても良いような気がする。過度の間食は体に毒なのでほどほどにしましょうみたいな。お金があくまで外部の溜りだが、体に溜る方が危険だと思わなくもない。とか書いていると世の中の間食勢から総反発が起こりそう。

 

おやつ食べないだよな。仕事中に口が淋しいとかもない。

いや、こっちの仕事(手慰み)タイムにはすぱすぱ吸っているが、べつに何かの代替ではない。

 

替わりなのか代わりなのか、どちらにせよ、そういう感覚を持って生きていない、で良かった。ここを分かる為に今日があった。自分の主観はだいたい他の人に塗られているから、まっさらにしないと出てこない。

 

明日は何して遊ぼうかしら。

現金戦闘力なくてもなんとでもなるし、遊び場はたくさんある。寝かしておいたJavaScriptを進めるでも良いし、他のことをしても良い。

 

色々並行して進めているから、しないといけないではなく、寝かしているという表現になる。

最終的に散歩でも楽しめますし。

 

あんまり連呼すると嘘っぽくなる法則も、おそらく主観がインストールしてきたまがい物が。大事な人(こと)は何回重ねても良い。「夫」はどうなのだろうなぁと思いつつ。

 

まぁ、一番遊んでいるのは、ここか。

〇日更新というタグみたいなのが流れてきたが、なんだかこれって、禁欲チャレンジちっく。おそらく他に使いたい時間もあるのに、苦行として継続しているという感じ。そういうメンタルコントールはやめておいた方が良いと思うのだが、世の中の人格論って、何か意志でコントロールしないとうまく制御されないという風潮がある。そんなんで当人の人生劇場が楽しいものになるなんてことはないと思う。でも苦と楽がセットだとそうなるのだよな。苦があったから今が楽しいなんて、なんとも確率的な世界観。

 

自分に返ってくるのではなく、知らん人に送るくらいがちょうど良い感じ。

共産主義の延長で共有主義というのは起こらんだろうか。カーシェアとか傘シェアの延長で。民法の所有権の考え方は個人所有が基本形だから、共有は過渡期のものとされる。けど、共産は結果としての利益が共同に分配される不公平感があるのがネックだとして、共有だと相手にも分け与えるし相手からも与るし、良い感じなのでは。

 

資本主義の転換は既得権の人達がブレーキをかけているが、時代はこの先もどんどん変わっていくだろうし。

 

やれやれ。

 

「奇声を発すると顔付きが良くなる」らしい。恋人さん曰く。

理詰めで世界を捉えていないし、言葉で自分が表現できるものでもないという世界観。自己分析は言語ですようなものではなく、味とか直感で捉えるところ。そうなると、あとはどう言葉化するだけであって、言文一致ならぬ、言人一致で生きている人なんて在らない。言葉はあくまで道具だから、言い方なり書き方でなんとでもコスプレできるし。

 

いや、でも良いことしか書いてないのも悪いことしか書いてないのもコスプレだとすると、それぞれ味わいがある。言葉に辛い恋人さんはこういう世界観は受け入れないだろうな。詩が筆頭で、文学的に芸術になっていないのは食えない。流行の最果てなんとかさんも駄目と言っていた。

 

僕はそこまで言葉を学していないし、言葉を摂取することで心身上不健康になることはないから、やりたい放題で雑食している。美味しければ文豪の小説であろうが、匿名の誰かの記事であろうが一意。なんとか賞を得たとか、歴史的に一目置かれているという触れ込みは無関係。

 

文章が上手くなったところで本質は変わらないというのが自説。

僕の文章はちっともうまくならないという主観だが、文章を上手く書くことに対して欲がないのも確か。ここでいう上手いは時節の流行に乗って、スキがいっぱい集まるとかバズるとか。読み宣の人とやり取りしている訳でもないし、読まれたいがだけの人とも関係するつもりがない。

 

そもそも、上手い文章ってなんなのだろうな。

情報を適切に伝えるものだとすると、それは数式みたいなものになる。ヴィトゲンシュタインさんの言みたいな。そんな緻密に書いたところ読解できない。僕もよく分からん。

 

この先に、自分を表現できることというのがありそう。

僕は人って非言語の次元に在ると捉えているから、この表現力とは結局のところ情報を適切に伝達するのではなく、自分が存在している世界をどれだけスケッチしているかだから、うんちく的な話はどうでも良い。

 

まぁ、読んでいる文章において、作者がどのように書いているかまでは基本的には読まない。読めないでも良いのかも。僕は作者の文章からどう書いているかまで追ってしまう。目次は基本的にない方が良いというのはきっと紙媒体由来だからだろうな。

 

文章読んで具体的な作者のことを想わずに読めるってどういう感覚なのだろう。

これが読解力なのではと思うが、きっと学者さんからも賛同はない。言葉を読むのではなく、人を読むのでは。

 

紙媒体と言えば。

 

今日は遊び惚けていて本屋さんが閉っていたため我が家の書庫をちらっと見たら、村上さんのキャッチャーインザライが出てきた。ブックオフで108円。消費税改定前。

 

アンダーグラウンドと連続して村上さん祭りになった。

 

キャッチャーインザライに鉛筆で丸が付いていて、僕が付けたのかと一瞬思ったが、「人は当たり前のことしか見ない」みたいな当たり前過ぎることに印なんてつけない。文脈が違う。

 

はい、また明日。

 

おやすみなさい。

 

良い楽しさを。